野良猫通信
国内外の食品安全関連ニュースの科学について情報発信する「野良猫 食情報研究所」。日々のニュースの中からピックアップして、解説などを加えてお届けします。
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東北大学薬学部卒、薬学博士。国立医薬品食品衛生研究所安全情報部長を退任後、野良猫食情報研究所を運営。
畝山 智香子2025年11月21日、世界がん研究機関(IARC)がIARCモノグラフ140についての会合の要約をThe Lancet Oncologyに発表すると同時に、Q & Aやインフォグラフィクス、動画を含むプレスリリースを行いました。

IARC Monographs evaluation of the carcinogenicity of atrazine, alachlor, and vinclozolin – IARC
21 November 2025
モノグラフ全文が公開されるのはかなり先になると思われるので、現時点でわかるこの評価の仕組みの問題点を記しておきます。
モノグラフのための会合は2025年10月28日から11月4日までの約一週間で、対象となった化合物は除草剤のアトラジンとアラクロール、抗真菌剤のビンクロゾリンでいずれも農薬としてこれまでしかるべきリスク評価を受けたことのある物質です。
結論としては
・アトラジンとアラクロールをグループ2A :おそらくヒト発がん性
・ビンクロゾリンをグループ 2B:ヒト発がん性の可能性がある
と分類しました。
Lancet Oncol.に発表された要約によると
・アトラジンとアラクロールについてはヒトにおけるがんの根拠は「限定的limited」、実験動物でのがんの根拠は「十分sufficient」、各種実験系でのメカニズム的根拠は「強いstrong」なのでこの3つでグループ2A
・ビンクロゾリンについては実験動物でのがんの根拠は「十分sufficient」、各種実験系でのメカニズム的根拠は「強いstrong」の2項目でグループ 2B
とされています。
これら3つの農薬の共通点は、農薬の認可申請のために各種安全性試験を行ったときに一部の動物において腫瘍の発生が確認され、その腫瘍については発生メカニズム等からリスク評価機関において農薬として使用した場合のヒト健康影響においては懸念とならないと判断されていることです。
最もわかりやすいアトラジンを例に説明します。
アトラジンはIARCモノグラフ73において評価されたことがあり、その時の結論はグループ3:ヒト発がん性について分類できない でした。
IARC Publications Website – Some Chemicals that Cause Tumours of the Kidney or Urinary Bladder in Rodents and Some Other Substances
Volume 73 1999
(注:1999年のIARCの分類はグループ1から4まであり、現在はグループ4(ヒト発がん性がない)は廃止されている)
つまり1999年から2025年の間に発がん性の分類が2ランク上がったことになります。ヒト疫学で1段階、動物実験のメカニズムで1段階です。
このうちヒト疫学研究については、使用歴が長くなればなるほど研究の数は増え、研究が増えれば中には正の関連を報告するものも出てくるだろうということと、がんというのは一つの病気ではなく、いろいろな種類の異なる病気の総称であること、胃がんや肺がんのように大雑把に同じ名前で呼ばれているがんであっても、原因も病態も全く違うものが含まれるためにあらゆるがんについて何かとの関連を細かく検定していけば何かに有意差がつく可能性はかなり高いだろうという一般的な指摘をしておきます。
ヒトの疫学研究についてはその研究の質に疑問があっても(不適切inadequateと評価されても)根拠のランクを上げる理由になる、というのがIARCの評価方法なので、どんな化合物であれ広く使われていて注目された時点でいずれランクが上がることが期待されるわけです。それが科学的といえるかどうかは疑問ですが。
ここで強調しておきたいのは動物実験の解釈の問題です。
先にPFOAの分類についての記事で
PFOAの「発がん性」とは – FOOCOM.NET
近年IARCが「発がん性の10の特徴」をメカニズムの根拠として採用するようになったために発がん性の根拠の強さのランクが上がっていることを説明しました。
それがアトラジンの評価でも見られています。
1999年にIARCがアトラジンをグループ3と判断した時にはSDラットで観察された乳腺腫瘍はFischer 344ラットやCD-1マウスでは両性で観察されず、高用量のアトラジンによる正常な加齢性の生殖周期のかく乱の加速によるもので、もともと乳腺腫瘍好発性のSDラットで内因性のエストロゲンへの暴露が増加するため早期に発症するためであろうと多くの動物での研究を引用して解説されていました。アトラジン自体にエストロゲン活性があるわけではなく、SDラットに特有のメカニズムでホルモンに影響するのです。そのため動物での発がん性はヒトに当てはまるとは考えられないと判断されてアトラジンのヒト発がん性の根拠は不適切inadequate evidenceと結論されていました。
それが2025年の評価では「ラットでの発がん性がある」(これ自体は同じ)と「発がん性のメカニズムのうちのひとつ(エストロゲン仲介影響がある)」に分離されて発がん性についての強いメカニズムの根拠の理由のひとつとされているのです。
1999年の評価の際の動物実験の専門家による様々な考察は2025年のチェックリスト方式での検討からは排除されています。それは科学としては後退ですし、どうしてこの物質がSDラットでだけ腫瘍を増やすのかについて探るために行われたたくさんの実験や議論への敬意はありません。
私は動物実験反対の立場ではないですが、動物を使った実験は慎重に適切に行うべきだという主張には賛同しますし、これまでの動物実験によって得られた知見は最大限に活用する責任が科学者にはあると思います。貴重な動物の命を使って得られた情報をなかったことにするのは彼らへの冒涜だと思います。それがこの文章のタイトルに込めた思いです。
さらに「発がん性の特徴」の根拠としてLancet Oncologyで引用されている論文の一つはナイジェリアの大学での全部でわずか12匹の動物を使った研究でアトラジンの投与量は120 mg/kgと記載されています。
Atrazine exposure caused oxidative stress in male rats and inhibited brain‐pituitary‐testicular functions – Rotimi – 2024 – Journal of Biochemical and Molecular Toxicology – Wiley Online Library
この論文はアトラジンの発がんメカニズムの説明部分で引用されている全部で2つの論文のうちの1つなのでワーキンググループが重要な論文と考えていると思われるのですが、これが代表的な論文だというのなら、その主張の根拠はかなり薄弱です。
アトラジンは2007年にJMPRによる評価で「アトラジン、デエチルアトラジン、デイソプロピルアトラジン、ジアミノクロロトリアジン」のグループADI 0.02 mg/kg体重/日が設定されています。
WHO | Inventory of evaluations performed by the Joint Meeting on Pesticide Residues (JMPR).
120 mg/kg はADIの6000倍です。どんな化合物であろうと、日常の摂取量の6000倍を投与されたら何らかの有害影響がでるのではないでしょうか?
なおIARCの「発がん性の特徴」については意味のある指標にはならないことを指摘した論文がありますのでこちらも是非参照してください。
How well can carcinogenicity be predicted by high throughput “characteristics of carcinogens” mechanistic data? – ScienceDirect
それでこのIARCの発表を私たちはどう受け止めるべきなのか、ですが、IARCのハザード評価の役割はリスク評価のきっかけになることだとIARC自身が強調しています。それなら農薬についてはJMPR、食品添加物についてはJECFAが使用状況を考慮してリスク評価を行っているので、IARCを参照する必要はない、ということになります。
東北大学薬学部卒、薬学博士。国立医薬品食品衛生研究所安全情報部長を退任後、野良猫食情報研究所を運営。
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