野良猫通信
国内外の食品安全関連ニュースの科学について情報発信する「野良猫 食情報研究所」。日々のニュースの中からピックアップして、解説などを加えてお届けします。
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東北大学薬学部卒、薬学博士。国立医薬品食品衛生研究所安全情報部長を退任後、野良猫食情報研究所を運営。
2025年6月にEFSAが食品と接触するプラスチック中のスチレンについての再評価結果を発表し、経口摂取による遺伝毒性の根拠はなく、従って食品容器に使用されているスチレンの安全上の懸念はないと結論しました。
Re‐assessment of the risks to public health related to the genotoxicity of styrene present in plastic food contact materials | EFSA
10 June 2025
これについてドイツBfRが2025年7月17日付で詳しく説明しています。
New EFSA assessment: no evidence of genomic damage from styrene in food packaging – BfR
欧州ではここしばらくスチレンの安全性が大きな話題の一つになっていたとのことですが、日本ではほとんど話題になっていないと思います。そのことも含めて、興味深い例なので概要を紹介します。
スチレンはプラスチックの原料として多くの製品の製造に使われていて、食品容器のような食品と接触するプラスチックにも使用されています。食品容器に使われた場合、ごく微量ですがスチレンが食品に溶出する可能性があります。
このスチレンが大きな騒動になったのは2011年にデンマークのLM Wind Power社の元従業員20名が、風力発電用の風車を作るときに使われるスチレンにばく露されたためにがんを含む重い病気になったと主張し、それをデンマークのメディアが盛んにスキャンダルとして報道したことがきっかけです。
メディアはニキビから記憶喪失やがんまで、ありとあらゆる有害影響がスチレンのせいかもしれないと恐怖を煽ったようです。スチレンは古くからよく知られている物質で、毒性に関する情報もそれなりにあり、そのうえで広く使用されていました。スチレンを使っている工場やそれに比較的長期間ばく露されている労働者は世界中にたくさんいますから多くの観察研究も行われました。そしてあらゆる化学物質の場合にそうであるように、観察疫学によるいろいろな病気や症状との「関連がある」「関連がない」という様々な論文が多数出版されました。
そこでいつものようにIARCがハザード評価をしました。2018年にIARCはスチレンを「おそらくヒト発がん性」(グループ2A)と分類しました。
IARCは2002年のスチレンの評価ではグループ2Bとしていました。マウスの吸入試験で肺に腫瘍が増加することが示されていたものの経口投与ではがんの増加は観察されず、肺でできたスチレンの代謝物が肺の細胞に作用して発がん性につながった可能性が示唆されています。それが2018年にグループ2Aに格上げされた理由は、スチレンの代謝物で動物での肺の腫瘍発生に関与すると考えられたスチレン-7,8-オキシドがヒトの培養細胞でも作られるという報告があるので「メカニズムについての強い根拠がある」とされたからです。
2002年と2018年の入手可能な科学的根拠には、論文数こそ増加しているものの、実質的にはあまり違いはありません。大きく変わったのはIARCの判断基準です。2002年には「肺胞で活性代謝物ができたとしてもそれが血流にのって全身に運ばれると極めて微量になるため、肺以外に影響するとは考えられない」として動物実験の結果がヒトにあてはまる可能性は低いと判断していたのが、2018年には「ヒト培養細胞で変異原性のある物質に代謝されることが確認されたので発がん性のメカニズムとして確実」とされたわけです。
IARCがスチレンをグループ2Aに分類したために欧州委員会がEFSAに食品接触物質中のスチレンのリスク評価を依頼しました。IARCが参照した文献の多くは高濃度吸入ばく露なので、ごく少量の経口摂取では状況が違うことは明らかでした。しかし2020年の意見ではEFSAは食品接触物質由来のスチレンがヒトのがんリスクを増やすという根拠はないとしつつも、スチレンの遺伝毒性の可能性については幾分かの不確実性が残されていると注記しました。
そしてEFSAは2025年の再評価で、経口摂取による遺伝毒性はない、と結論したのです。具体的には最大耐量(300および500mg/kg体重)を経口投与した場合のマウスやラットで、直接接触する部位や代謝される場所(肝臓)で遺伝子への悪影響は観察されないことが示されているからです。従って一般的に食品接触物質に定められている溶出基準(特定移行限度、SML スチレンについては40 μg/kg 食品)を守っている場合、安全上の懸念とはならない、と断定しました。
スチレンの事例からわかることは、特定の国や地域である化学物質が「問題」になるかどうかにはメディアの影響が大きいということです。欧州で話題、と書きましたが2018年以前は実質的にはデンマークでのみ騒動になっていました。健康被害を訴える人たちがいて正義の弁護士などが企業を告発する、という構図はメディアにとっては鉄板です。
そして騒動の火種をみつけてそれを拡大するのがIARCモノグラフによる「発がん性」のお墨付き、です。EFSAやBfRなどのリスク評価機関によるリスク評価は明確にIARCのハザード評価とは異なりますが、それを理解して一般の人たちが「安心」できるかどうかはわかりません。結局スチレン(あるいは広くプラスチック)はなんとなく怖いものだと信じたままの人たちはいるでしょう。
一方で日本のようにスチレンの「問題」がほとんど一般向けに報道されなければ、消費者は特に不安を感じることはないわけです。
だから知らない方がいい、と言いたいわけではありません。専門家は関心をもって注視していましたし、私自身食品安全情報blogでスチレンのニュースは紹介しています。
報道に求めたいことは、日頃から冷静に情報を得て判断し、実際のリスクの多寡に関わらず警鐘を鳴らすIARCモノグラフによる「発がん性」のレッテルは一般の人々にとってあまり役に立たないので重視しない、あるいは無視する、ことです。
東北大学薬学部卒、薬学博士。国立医薬品食品衛生研究所安全情報部長を退任後、野良猫食情報研究所を運営。
国内外の食品安全関連ニュースの科学について情報発信する「野良猫 食情報研究所」。日々のニュースの中からピックアップして、解説などを加えてお届けします。