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執筆者

畝山 智香子

東北大学薬学部卒、薬学博士。国立医薬品食品衛生研究所安全情報部長を退任後、野良猫食情報研究所を運営。

野良猫通信

食品中汚染物質の基準

畝山 智香子

先の原稿で食品中カドミウムの「基準」について話題にしました。そして日本は食品の汚染物質の基準設定が少ないのではと思われたのではないでしょうか。

そのことについて、汚染物質の基準の考え方が残留農薬や食品添加物の場合と少し異なることを含めもう少し解説します。

●ADI等の目安量と、個別の食品に設定される基準との違い

食品に含まれる何らかの物質の「基準」には、許容1日摂取量(ADI)や耐容週間摂取量(TWI)のような、安全性の目安となる量と、個別の食品に設定されている使用基準や最大残留量(MRL)とがあります。

この二つの違いを理解し、安全性にとって重要なのは前者のほうである、ということを改めて強調しておきます。しばしば報道されるのは個別の農作物などに設定されているMRLなどの違反ですが、ニュースを聞いてもう食べてしまったけれど大丈夫だろうかと心配する前に、ADIやTDIのような安全性の目安量と比較してください。

食品添加物や残留農薬ですと安全性の目安となる量は慢性毒性についてADI、急性毒性については急性参照用量(ARfD)ですが、汚染物質の場合耐用1日摂取量(TDI)だけではなく一週間当たり(TWI)や一か月あたり(TMI)、さらにそれに暫定(provisional)がついたり(PTWIなど)、悪影響のない量が設定できない場合にはベンチマーク用量(BMD)をいろいろな目安(1%や10%など)量で設定したりと多様な指標が使われます。それらを健康ベースのガイドライン値(Health-Based Guidance Value; HBGV)と総称します。

農薬や添加物のような許認可制のものについては、目的通りに使った場合にADIを超えないことが確認されなければ認可されません。ところが汚染物質の場合には必ずしもそうなっていない場合があります。

●アクリルアミドの場合

例えばアクリルアミドは発がん性について、BMDL10(10%のがんの増加を指標にしたベンチマーク用量信頼下限)の値と人々の推定摂取量(ばく露量)との差(ばく露マージン)は多くの国で数百から1000程度で、遺伝毒性発がん物質の場合に望ましい最低10000より小さいです。

そのため摂取量を減らす必要があるので食品ごとに目安となる量を設定する場合があるのですが、調理でできてしまうことや全ての食品で生成状況がわかっているわけではないという性質などから、超過した場合販売できないような法的拘束力のある基準値としてではなく参考値(名称はベンチマークやガイダンス値等)としています。例えばポテトチップスなら1000ppmを目安にしてそれを超えるものは販売を継続しつつ低減策を検討する、といったように運用されます。そうすることで食品供給を妨げないようにしながら徐々に暴露量を減らすのです。

食品安全委員会によれば日本人のアクリルアミドの摂取源として野菜炒めが大きいとされていますがこれは食生活にとって不可欠です。欧州でもパンやコーヒーなど、日々の食生活に欠かせないものが主な摂取源になるので、消費者向けには低減対策のコミュニケーションをしつつ業界と協力しながら可能なところから濃度の高いものが減るようにしていくしかありません。

●基準値の設定は各国の状況に応じて慎重に

他にもここ数年EFSAが導出しているビスフェノールAや無機ヒ素のHBGVは非常に小さな値なので、個別の食品に設定された基準を守っていてもヒトでの総摂取量は多くの場合HBGVを超えます。そういう評価は「現時点で健康への有害影響がある可能性がある」(つまり流通している食品が安全でないかもしれない)と解釈されるので、実態を正確に反映していないしリスクコミュニケーションにとってもあまりよくないと私は思うのですが、敢えて解釈するとすれば、HBGVが実際の暴露量より少ないようなものはリスク管理の優先順位が高いというメッセージだと受け取ることができるでしょう。

国際流通する食品の基準値を設定しているコーデックスでは、個別の食品に汚染物質の基準値を設定する場合にはALARAの原則(合理的に達成可能な範囲でできるだけ低く)に従います。これはとにかく低ければ低いほどいい、ということではなくて、実行可能性が重視されるということです。

従って基準を設定する前に、流通している食品の実態を把握する必要があります。そこは添加物や農薬などの使用認可とは大きく違うところです。当然、汚染物質の基準を設定することのほうが添加物の使用基準を作るより難しく時間もかかります。

しかしながら現状日本では汚染物質対策への人員や資金などのリソースの配分は極めて貧弱で、それは政治が(つまりは国民が)汚染物質によるリスクをあまり大事だとは認識していないことを反映しています。リスクの大きさに応じてリソースを配分する、という考え方に従っていれば、違う形になっているはずです。

一方でコーデックスでは摂取量への寄与が小さいなど、基準があってもなくてもあまり健康影響に関係ないのであれば基準は定めないほうがいいとも考えます。

個別の食品に法的拘束力のある基準があると、それを超過した場合は自動的に(何も考えずに)廃棄されます。安全に食べられる方法があるとしても、です。基準値はあると便利なことも多いですが思考停止にもつながるので必ずしもあればあるほど良い、というわけではありません。

日本は多様な食品が供給されていて、国民のリテラシーが高く衛生規範を理解し、いろいろなものを食べることが良いと知っているから基準が少なくても安全性が保たれている、という方針を採用しているのだ、と主張することも可能です。

実際は、食品の輸出で外貨を稼ぐ必要のある国は国内の暴露実態とは関係なく国際基準を採用してきた一方、日本は輸出にはあまり関心がなかったので国際基準との整合性を気にしなかっただけだと思います。輸入食品が日本の国内基準に従っているかどうかをチェックすることが食品安全対策だと考える人が多かった。日本は「お金持ち」だったので日本向けの商品を作ってもらうことが可能だったのですが、時代とともに相対的に購入力が低下すると日本だけのために作ってもらうためのプレミアを支払うことが難しくなります。そして人口減少下では輸出もしたい。国際基準を考慮する必要性が高くなってきたわけです。

これからの日本にとってどういうやりかたが望ましいかはみんなで決めることですが、その前に基準の「意味」を知り、基準に振り回されるのではなく基準を使いこなすことを目指したいです。

執筆者

畝山 智香子

東北大学薬学部卒、薬学博士。国立医薬品食品衛生研究所安全情報部長を退任後、野良猫食情報研究所を運営。

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