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執筆者

白井 洋一

1955年生まれ。信州大学農学部修士課程修了後、害虫防除や遺伝子組換え作物の環境影響評価に従事。2011年退職し現在フリー

農と食の周辺情報

ゲノム編集技術応用へのハードル 医学では生命倫理だが農作物や魚では?

白井 洋一

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ゲノム編集技術を利用した品種改良が話題だ。最近でも、早く成長するトラフグ、受粉不要の赤いトマト(9月5日、NHKニュース)、筋肉隆々の豚(共同通信、9月15日)などマスコミをにぎわしている。ゲノム編集とは、CRISPR/Cas9(クリスパーキャスナイン)やTALEN(ターレン)と呼ばれるDNA切断酵素システムを使って、標的とする遺伝子を正確に導入したり、取り除く技術だが、作物や魚、家畜の品種改良以上に期待され、応用研究が進んでいるのが医学、医療の分野だ。

ねらった部位を正確に操作できる技術なので、今まで難しかった生殖細胞や受精初期の胚の遺伝子改変もできるが、ここで問題になるのが、人の命、生まれてくる子供の将来に利用してもよいのかという「生命倫理」上の課題だ。

医学・医療への利用 学術会議でも検討開始

この問題は昨年(2015年)12月に米英中の科学アカデミー団体が米国ワシントンで「ヒトのゲノム編集に関する国際サミット」を開き、科学者間で一応のルールが示された。応用は体細胞に限る、生殖細胞を使うのは基礎研究に限り、子宮には戻さないというものだ。日本でも、5月に日本学術会議が「医学・医療領域におけるゲノム編集技術のありかた」について検討委員会を設置し現在、今後どうあるべきか検討している。

そんな中、8月19日に学術会議主催の公開講演会「ゲノム編集技術の現状と将来展望」が開かれた。

 講演は4題で、いずれも日本では最先端、著名な研究者たちだ。

1. 「ゲノム編集の基本原理と最近の研究動向」 山本卓(広島大学理学研究科)

2. 「立体構造に基づくゲノム編集ツールの開発と医療応用への展望」 濡木理(東京大学理学系研究科)

3. 「ゲノム編集のiPS細胞および遺伝子治療応用」 堀田秋津(京都大学iPS細胞研究所)

4. 「ゲノム編集技術の社会統合を考える」 石井哲也(北海道大学安全衛生本部)

 医学、医療に焦点を絞った講演会と思っていたが、山本教授と石井教授は農作物の品種改良を含むゲノム編集全体にわたる講演だった。

山本教授の講演から

・ゲノム編集にはノックアウト(遺伝子の機能をつぶす)とノックイン(遺伝子を導入する)があり、ノックインはより正確な遺伝子組換え技術と言える。ゲノム編集も組換え技術の1つ。

・2012年にCRISPR/Cas9が開発されて以来、生命科学の研究者では日常的なツール(研究の道具)になっている。

・産業利用での関心は知的財産権。CRISPR/Cas9は特許権を巡り米国で係争中。

・この技術で心配されるのは、標的以外の部位を切断する可能性(オフターゲット作用)と人の場合は胚発生でのモザイク化。

・作物などでノックアウトを利用する場合、自然突然変異と同じレベルの品種改良ができる。偶然の変異ではなく、ねらって変異を誘導できるので時間が短縮できる。

・農水省や大学では、豚や牛の肉質改善、ソラニン(有毒アルカロイド)のないジャガイモ、養殖向きのおとなしいマグロなどの研究を進めている。

・医療への応用はノックインだが、ノックアウトのように簡単にはいかない。これからはノックインの精度、効率を上げる技術開発が重要になる。

 石井教授の講演から

・メリットは高い効率性、多くの用途に使える、複数の改変が同時にできるなど。

・デメリット(心配される点)は、オフターゲット変異、染色体異常、モザイク化。これらのリスクについて、どのように調べるかのコンセンサス(合意)ができていない。ゲノム編集を使った論文でもオフターゲットを調べた例はほとんどない。

・中国の研究は医療のためというより、ただ受精卵を使って実験したかっただけだと思う。

・作物の品種改良では、遺伝子組換えは嫌われているので、避けてゲノム編集でという動き。

・リスクへの不安にきちんと応える体制がないと、社会には受け入れられないだろう。

石井氏の講演には多くの質問、意見があがった。演者のひとり、山本氏は「ノックアウトでも安易に自然の突然変異と同じというのは危険、成分の比較など最低限必要だと思う。しかし、組換え作物のように規制のハードルを高くして、日本の産業界が利用できないにようになるのは問題だ」とコメント。堀田氏も「CRISPR/Cas9の安全性を検討するのは必要。しかし規制だけが先行するのは問題だ」と懸念を示した。

私は「オフターゲット変異が心配というのはやや抽象的。組換え作物では最初、何が起こるか分からないといった漠然とした不安があったが、植物の代謝生理に関与しない、除草剤耐性や害虫抵抗性作物では、そんなに心配するようなことは起こらないことがこの20年で分かっている。このことが広く社会に知られていないことは問題だが、ゲノム編集をひとまとめにしてオフターゲット、標的外へのリスクが心配というのはどうか」と質問した。石井氏は「それは植物科学者、開発者側が考えること、答えに不満はあると思うが」と答えた。

確かに満足はしなかったが、なるほどとも思った。ゲノム編集を利用している研究者もただ漠然とオフターゲット変異の心配もあるというのではなく、自分が扱っている作物、魚、家畜を例にして、オフターゲットの起こる可能性、もし間違ってねらった部位以外を切断したらどうなるのか、予想外の悪影響がおこるのか、たいした変化はおこらないのかを具体的にきちんと説明する必要がある。社会科学や生命倫理学者にまかせておいたら、漠然とした不安、恐怖が定着してしまうだろう。

 日本の農作物や魚では

山本氏の講演でも紹介されたように、日本ではイネ、トマト、ジャガイモ、魚、家畜でゲノム編集技術を使いさまざまな応用研究がおこなわれている。家畜や魚の品種改良では受精卵を使って遺伝子を操作する。しかし、問題なるのは倫理ではない。ゲノム編集で作った作物、家畜、魚が遺伝子組換え体のように法律の規制対象となるのかならないのかが最大の関心事だ。もう一つはたとえ規制対象とならなくても、ゲノム編集で作った食品を消費者や食品産業が受け入れるかどうかだ。

農林水産省の研究開発部局がどんな戦略でどのような品種開発を進めているのか、農芸化学学会の機関誌、「化学と生物」2016年9月号に「育種革命をもたらすゲノム編集技術」と題する行政サイドからの解説が載った(PDFがダウンロードできる)。

農水省や大学の研究機関は2014年から内閣府の大型研究「戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)」に参加し、2018年までの5年間、多額の研究予算を獲得した。ゲノム編集技術関連の研究の多くはこの中に入っている。SIPは4本柱の研究体制になっている。

1. 日本独自のゲノム編集技術の開発
2. 新規の有用遺伝子を探索し、データベースを国内利用者に公開
3。 画期的な新品種の開発
4. これらの成果が社会に受け入れられる方策を作る

SIPは5年間で社会に出る商品、技術が求められる研究プロジェクトで、たんに先端技術を使った基礎研究ではない。4本柱のメニューを見て、5年間でほんとに達成できるのかと心配になった。とくに1と3だ。

CRISPR/Cas9はオリジナル性を巡って、現在、米国のマサチューセッツ工科大とカリフォルニア大のグループが特許権で係争中だ。今は研究段階なら、安い費用で使えるが、産業利用に使う場合は米国に高額な使用権料を払わなければならない。CRISPRではできない日本独自の新技術を開発し、相手側と相互に特許利用するクロスライセンスをめざしている。CRISPRはノーベル医学生理学賞が確実と言われているが、これと互角に扱ってもらえるような日本発の技術を開発できるのか。

3の画期的新品種にあがっているのは、日持ちのよいトマト、ソラニンのないジャガイモ、多収量イネ、養殖向きのおとなしいクロマグロのようだ。CRISPRではなく、TALENという人工制限酵素技術を使っているが、2018年度までのあと3年で商品化にこぎつけるのは難しいだろう。まだ実験室段階での機能検証で、応用現場でもうまくいくかは未知数だ。導入遺伝子が残っていないことの証明や、オフターゲット変異の説明もまだで、組換え体として扱うか扱わないかの判断も出ていない。

具体的な商品、製品が出てこない中で、社会に受け入れられるための消費者、市民への働きかけも難しいだろう。養殖に向くおとないしいクロマグロとは、チロシナーゼという色素形成にかかわる遺伝子の働きを抑制したものだが、「元気のないマグロ、なんか気持ち悪い」と思う人も多いだろう。実際に試食して、「おいしい、今までのマグロと変わらない、それに安い」などと評価されれば、印象は好転するかもしれないが、それは現物ができてからの話だ。

 軸足をしっかり 

農水省や研究者はゲノム編集技術のうち、狭義のゲノム編集しか考えていないようにみえる。ノックインではなく、ノックアウトだけだ。農水省の研究開発計画でも、ゲノム編技術の開発と遺伝子組換え技術の開発を別扱いしている。

参考 研究開発ロードマップの目標26(29-30頁)

「ゲノム編集は遺伝子の働きを抑えるだけ、新しい遺伝子は導入しないし、操作した痕跡も残らないから、遺伝子組換えとは違う。だから規制の対象外だ」と言いたいようだが、この姿勢には問題がある。

今までの遺伝子組換え作物で審査を経て商品化されたもので、あとから安全性に問題がでたものは1つもない。審査や規制の対象から逃れたい一心で、「われわれのゲノム編集は遺伝子組換えではない」と強調する戦術は必ずほころびがでるだろう。このような逃げの姿勢では、現在、開発中のノックアウト製品(トマト、クロマグロなど)でも、商品化するまでに必要なデータ提出の関門を乗り越えられないと思う。

執筆者

白井 洋一

1955年生まれ。信州大学農学部修士課程修了後、害虫防除や遺伝子組換え作物の環境影響評価に従事。2011年退職し現在フリー

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一時、話題になったけど最近はマスコミに登場しないこと、ほとんどニュースにならないけど私たちの食生活、食料問題と密に関わる国内外のできごとをやや斜め目線で紹介