科学的根拠に基づく食情報を提供する消費者団体

執筆者

長村 洋一

藤田保健衛生大学で臨床検査技師の養成教育に長年携わった後、健康食品管理士認定協会理事長に。鈴鹿医療科学大学教授も務める

多幸之介先生の健康と食の講座

瓦礫を受け入れない県知事や市町村長は日本を滅ぼす

長村 洋一

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 本年3月11日の未曾有の天災は、多くの人たちの生命と長年の居住地を奪っただけでなく、原発事故という大きな難題を投げかけた。まさに日本の歴史、というより世界中で今までに発生した地震の中でも非常に特異な災害となった。東日本で発生した事件であったにも関わらず、一時は地震の直接被害の全くなかった西日本や、世界各地の自動車工場が操業できない状態になるなど、全く予想外の事態を引き起こした。

 まぎれもなく国難と表現して良い大災害である。この災害に対し日本中が一致団結して立ち向かわなければならないのも事実であり、現実に非常に多くの人たちが直接、間接に復興支援をしている。

 だが、積極的な支援が足りず、震災被害者の復興への大きな障害になっている問題もある。
(1)瓦礫処理を受け入れる所が極めて少ない
(2)福島の食品を購入しない
の二つである。

 この両者の問題の最も大きな発生原因の一つは明らかに原発問題である。そして、原発問題をここまで複雑にして、いつまで続くかわからない不安を住民に与えている責任は、ひとえに行政、東京電力、学者の不用意な発言、メディアのこの問題に対する取り上げ方などにあると言える。その結果、一般市民の多くの方が放射能に対して、極めて大きな誤解とそれに基づく安全意識を抱いてしまい、それが問題を深刻にしていると判断している。

 一般市民の心配に対して、ごく弱い放射能を浴びることは喫煙をするかしないかのリスクより低いレベルである、と説明をしても、ただ恐怖におびえて神経質といえるほど不安になっておられる。市民講座などを通して何人も遭遇した。一般市民の、よく分からない、ということに起因する不安とそれに基づく危険回避の心理は、小生にもよく理解できる。

 こんな状況の中では、少しでも放射性物質が含まれるかもしれないと思われる瓦礫は自分の身近なところに来ては困るし、わずかにしても放射能が入っている食品は食べたくない、と思うのだろう。

 瓦礫処理の問題は自治体と強い関連があるので、個人の問題としては対処しにくい一面もあるが、食品の問題は個人の意識でどうにでもなるはずである。福島の食品問題に関してはメディアがかなり協力的であり、特にテレビ番組等ではおいしい福島の食を紹介し、そこに出てくる人たちは「もっと福島の食品を皆で食べよう」と言った発言をし、新聞の特集記事などでも同じような消費者の発言記事が掲載されている。こうした情報を拝見している限りでは、消費者には気にしている様子などまるで無いようであるが、現実の市場では福島の食品は売れていない、という実態が明らかである。

 そこで、無駄かもしれないが小生がいつも話をしている結論を申し上げる。今福島で安全宣言がなされている物を食べようが、そばに置いておこうが放射線による確定的影響は絶対に発生しないと言い切れる。そして、問題となる低線量領域における確率的影響であるが、多くのところで問題となっている少数点以下のマイクロシーベルトにおいては、その影響は限りなくゼロに近いが、ゼロである、と言い切れないのが事実である。しかし、ゼロでないから危ないではなく、危機管理の観点からどう扱うべきかを考えないといけない。ところが、そのための見解が大きく分かれ、同じ放射線の量に対して、安全と非安全の両方の結論が、それぞれ具体的説明のもとに語られているところに諸々の困惑の原因がある。

●デュッセルドルフの経験

 小生は自分の40年近い教育、研究生活の中で約35年間にわたって放射性同位元素を扱った実験研究を行っていた。したがって、毎年1回、丸1日にわたって開催される法律で義務付けられた「放射線からの安全確保のための研修会」に出席し教育を受け、それなりに勉強してきた。そして、その教育では一貫して「確率的影響にはしきい値が無い」と教えられた。そんな知識を有する者の経験の中で一つの重要な参考になる事件がある。

ちょうど30年前に3年余の間、小生はドイツのデュッセルドルフ大学の糖尿病研究所に留学していたが、そこでも放射性同位元素を扱った実験を行っていた。そして、帰国3年後にチェルノブイリの事故が発生した。その3か月後にたまたま小生はドイツの昔の研究所を訪ねる機会があったが、その時に研究所の共同研究者が「チェルノブイリの事故はひどかった。あの事件の直後3週間近くアイソトープの実験ができなかった」とのことであった。その理由は、空気中に飛散している放射能の測定値が高いために実験で上昇したカウントの誤差が大きくなりすぎて信頼できなくなってしまったためである、とのことであった。

 デュッセルドルフはチェルノブイリから1500Km以上離れた場所だが、この事故でまき散らされた放射能は相当なものであったことが推測される。実際ドイツ北部ではヨードが配布された地域もあったとのことであった。すなわち、当時は相当高濃度の放射性物質がヨーロッパ全土でまき散らされた。

 こんな事故から25年が経過した今、ドイツのデュッセルドルフのように事故当時にある程度の放射性物質が降り注いだヨーロッパの地域で、チェルノブイリ事故によると推測される白血病が増加したとか、がん患者が増加した、と言ったニュースは聞かない。これは、調べてないから分からないだけで、実は何人かは増加しているかもしれない。しかし、もしそうであったとしても、その確率は降った放射能の量からそんなに重大な増加は見込まれていないのも事実である。

 すなわち、ここで考えていただきたいのは、今我々が、測定値が規制値以下である瓦礫や食品を受け入れたとしても、そのことによる被ばく量はチェルノブイリの事故直後のデュッセルドルフあたりの放射線量より少ないと推測されることだ。そうすると、瓦礫を受け入れた地域の人が今から25年後に受ける被害は、デュッセルドルフの人々より低いのではないかと思われる。言い換えれば、受け入れた時の被害がゼロであるとは言い切れないが、限りなくゼロに近い。すなわち、瓦礫処理の問題は、本当は科学の問題と言うよりも感情領域の問題である。

● 「七人の侍」が示す「リスクは全国民で分け合う」意味

 だから大丈夫だぞ、というつもりもないし、その言い方は住民感情として納得ゆくものではない。しかし、我々は今被災者の置かれている立場と日本全体のことを考えなくてはならない重大な命題を抱えている。この命題に対する対処としては、限りなく危険性をゼロにすると同時に、例えわずかな危険性があるとしても、それを被災者のみに負わせるのではなく、全国民が分け合わなければならないのではなかろうか。被災者と苦しみを分かち合う、そんな気持ちを我々は持たなければいけないのではないだろうか。

 かつての黒澤明の名画「七人の侍」の中の一場面に次のようなシーンがある。部落から離れた3軒の百姓たち数人が「他人の家を守るためにこんなことすることはバカらしい、俺たちは俺たちだけで自分の家を守ろう」と言って、竹槍を投げだしたときに、志村喬演ずる島田勘兵衛が「槍を取れ、取らぬやつは斬る」といきなり刀を抜きその百姓たちに迫った。すると百姓は恐ろしくなって槍をとる。

 勘兵衛は彼らが槍を取るのを確認したところで、「離れ屋は3つ、部落の家は20だ、3つのために20を危うくはできない、また、この部落を踏みにじられて離れ屋の生きる道はない、戦とはそういうものだ、他人を守ってこそ自分も守れる、己のことばかり考える奴は己をも滅ぼす奴だ」という。小生はこの最後の「戦とはそういうものだ、他人を守ってこそ自分も守れる、己のことばかり考える奴は己をも滅ぼす」というセリフを自分が、指導者的立場に立たされて物事を処すときに良く思い出す。

 集団を動かそうとするとき、その集団全部が満足する方向などは”無い”というのが現実である。その時に、不満を持つ人達をどのようにまとめるかが指導者の能力が問われる大きな問題である。全員納得でまとまれるのが理想ではあるが、そうでないときの最後の手段は、指導者としての強権発動である。黒澤の「七人の侍」のこのシーンはまさに、指導者が最後の手段に出た時であるが、そのシーンのまとめとして出てくるのがこのセリフである。

●自治体首長は「瓦礫受け入れ」決断を

 こうした強権発動は、一歩間違えればとんでもない独裁に陥り、人々を長年しいたげる悲惨な結果を招いてしまう。これは、世界各地の歴史の中で繰り返されてきた。しかし、この諸刃の剣的な独裁的判断と行動は、時に多くの人々を劇的に救う特効薬的役割を果たすことがあり、必要なこともある。特に戦争というような事態に突入し、戦わねばならぬ時は、誰もが犠牲者になりたくはない。犠牲を最小限にとどめてその集団をまとめなければならないときには、犠牲者を選択しその方向性を誰かが決めなければならない。指導者にはしばしば苦渋の決断が要求される。

 いわば、何万匹かの猫が、「怖い、怖い」とミャーミャー言って怯え、やがて崖っぷちから全員落ちそうになろうとするときには、数匹の知恵ある強い虎が方向を定めて全員を率いてゆく必要性がある。今の原発の事故に基づく民衆の不安に対して必要なのは、まさに知恵ある指導者による全日本の統率である。これだけ情報が混乱をしている中で、全員が納得して受け入れたり、食品を買いだしたりするのを待っていたら途轍もない時間を要する。そして、その間に被災者たちは支援を待ちくたびれて生活ができなくなってしまう可能性がある。

 こんな状況下において、県知事や市町村長は「瓦礫を受け入れるか否か」の意向を住民に伺いを立てるのではなく、受け入れを前提として県民、市民の理解を得るのにどうしたら良いか、という施策を行うべきである。彼ら自らが「皆さん被災者のために安全にがれきを受け入れ、福島の食品を積極的に購入しましょう」と呼びかけなかったら、いつまでたっても瓦礫処理は進まず、風評被害は無くならず復興の大きな妨げになる。

 小生は、少なくとも自分の科学的知識、それも放射性同位元素を扱った実験を30年以上行ってきた過程で学んだ「放射線とその安全取扱い」の知識と経験に基づく考察から、全国各地で瓦礫を安全に処理することは可能であると確信している。

 むしろ心配なのは、放射能に眼を奪われて、”発がん”という観点から少量の放射能よりはるかに危険性の高い「アスベストや廃棄物に含まれる種々化学物質」等の処理を誤らないかということである。

● 被災者と同じ危険、苦しみ、分け合いたい

 誰もが他人の芥を受け入れるのはいやである。ましてやその芥の中に「放射能があるかもしれない」とくれば、受け入れたくないのは住民感情としては痛いほど良く分かる。しかし、現在日本は国難というべき大きな災害に見舞われ、その復興のための「戦い」のさ中である。日本全体の復興を考えたら何が大切かは一目瞭然である。

 もう一度結論を繰り返す。東日本の瓦礫を受け入れ、福島の食品を食べたとしても、その放射能による影響は限りなくゼロに近いことは確かなことである。そうであるならば、我々は被災者と同じくらいの危険性と苦しみを分け合おうではないか。

 以上の観点から、東京都知事の今回の決断と行動力は大きな賞賛に値する。東日本の復興なくして日本の発展はあり得ないのである。各自治体の動きが遅々として進まぬ時には、島田勘兵衛のセリフのように政府主導で「瓦礫を受け入れろ、福島の食品を買え、受け入れぬところには予算を与えない、他人を守ってこそ自分も守れる、己のことばかり考える奴は己をも滅ぼす」と強権を発動すべき状態にある。まさに「瓦礫を受け入れない県知事や市町村長は日本を滅ぼす」と小生は考えている。

執筆者

長村 洋一

藤田保健衛生大学で臨床検査技師の養成教育に長年携わった後、健康食品管理士認定協会理事長に。鈴鹿医療科学大学教授も務める

多幸之介先生の健康と食の講座

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