科学的根拠に基づく食情報を提供する消費者団体

執筆者

長村 洋一

藤田保健衛生大学で臨床検査技師の養成教育に長年携わった後、健康食品管理士認定協会理事長に。鈴鹿医療科学大学教授も務める

多幸之介先生の健康と食の講座

「ゼロでない不安」への挑戦

長村 洋一

キーワード:

●「今年は先生のために九州のお酒にした」との連絡に、ショック

 小生の古くからお付き合いのある、ある社長さんから毎年年末に美味しい「福島のお酒」を送って頂いていた。そのお酒についている解説書によれば「自然農法による自然米(農薬、化学肥料を一切使わず栽培した酒米)、と蔵奥の山あいより湧き出る清水を原料に蔵元が280余年の秘伝の技術にて醸し出した”長命之一滴”の美味しいお酒」であった。少し甘口の口当たりが良く飲みやすいお酒であった。

 その社長さんから本年は九州熊本のお酒が送られてきた。この社長が、贈答にこの福島の銘酒を選んでおられる原因が、無農薬米と天然水にこだわっておられるからであったので、いつもと違うことに、ヒョットして福島を今年は九州に変えたのかなと少し複雑な予感がよぎった。その予感は当たっていた。荷物が到着して間もなく電話がかかってきた。社長さんの言葉によれば、「毎年買っていた酒屋から、放射能は心配ないので是非今年もお願いしますと何回も頼まれたけれど断って、今年は福島から遠い九州での銘酒を探して送らせてもらいました」とのことであった。

●社長にとんでもない決心をさせていた「イオンの広告」

 これまでいただいていた福島の酒造メーカーのホームページには、異なった日時に原料から水まで何回も放射線を検査し不検出であったとの報告が掲載されている。小生としては、本年だからこそ、福島の銘酒を是非頂きたかった。それに、一人でも風評被害を起こす原因にしたくないとの気持ちから、少し失礼になるかもしれないと思ったが電話で「社長さんのお志はとてもありがたくお受けいたしますが、小生としては毎年の福島のお酒が本当は楽しみでした」と話した。すると社長は「いやいや、先生今、福島の食品は検出限度以下と言っているが、少ないと言う事だけで、あれは実際には入っているってことですよ。ゼロではないことははっきりしていますから危ないですよ」と応えられた。

 そこで小生が、「確かに入っているかいないか、と言う点ではそうかもしれませんが、検出限度以下の量でしたら全く心配ないですよ」と、基準値の意味とその安全性について再び話したところ意外な答が返ってきた。「先生イオンに行かれたことがありますか。 “イオンはゼロ”にするって言っていますよ。あれが本当のお客様の事を考えた姿勢ですわ。私も大事なお方にはイオンのように絶対ゼロのものをあげようと思いまして、九州なら大丈夫だろうということで今年は変えました」とのことであった。

●イオンの広告はまさに被災者いじめ

 その後、宇宙線や身の回りの自然界の放射能や、ラジウム温泉の話、タバコの方が基準値以下の放射線よりよほど発がんの可能性があるなど、かなり長い電話となったが、社長の「ゼロでない事の不安」は全く解消しなかったというより、イオンの姿勢の賛美を繰り返し聞かされた。むしろ、小生のこうした話に社長は明らかに気分を害されてしまった。小生も余分なことを言わない方が良かったかなと複雑な気持ちで電話を切った。

 この電話をしながら思い出していたのはFOOCOM.NET編集長の松永和紀氏が先月にこのウェブサイトに書かれた「イオンさん、グリーンピースに褒められて嬉しいですか?」の記事であった。松永氏は「私は、この判断は科学、サイエンスとして間違っている、と考える。そして、ゼロを望めるという「幻想」を消費者に抱かせ、苦難に喘ぐ被災者に追い討ちをかける、人の道にもとる企業判断だと思う。そのことを、きちんと説明したい。」に始まり、”「ゼロ追求」は被災者いじめ”と断言されている。この記事の重さを改めて一般消費者に伝えたい。

●放射能問題より以前から根源にある消費者の「ゼロでない不安」

 今回の福島の原発の事故でまき散らされた放射能による風評被害がなくならないことの根幹には、一般消費者の「ゼロでない不安」感情が大きく存在すると小生は強く感じている。最近、至るところで放射線量が測定され、その情報が自治体等から伝えられている現状が皮肉にも、一般消費者の一部(あるいはかなり)の不安感情に増幅的に作用している。それは、測定によって小さな値であっても数値が出ていることである。数値が出ていることが「在る」という感覚を生み出すことから発生する問題である。

 一般消費者の方の「ゼロでないことへの不安」は放射能に始まったことではなく、食品添加物、残留農薬等に関しては今でも多くの消費者は「ゼロを理想」として追求している。無添加安全思想の実践はまさに「ゼロでないことの不安」に対する絶対的な対処法である。先の社長が福島の銘酒を贈答品として選択した理由が、無農薬の酒米と天然の水で作られている点であり、この酒蔵もこの点がホームページから拝見する限り今でも”売り”である。従って、「ゼロでない」ことを求めている社長にしてみれば、検出限度外であっても「入っているかもしれない」ということが買わない理由となってしまう。

●「ゼロでないことの不安」の根幹に流れているもの

 食品添加物や残留農薬の話を一般の方とするときに、大きな壁になっているのは量の概念である。小生は繰り返しこの問題について機会をとらえて書いたり話したりしているが、一番難しい問題点の一つである。いくら丁寧に話しても、聞いておられる方のイメージには「大量に入っていた場合の健康被害」と「量を考慮せず、入っているという現実」が短絡した形で共存しているので、結論として入っていれば「危ない」となってしまう。あるいは少しでも危ない物はゼロにすべきだという対応に直結してしまう。

 量の概念を確立するためには、量の比較による危機管理の概念が必要となるが、この危機管理の概念には大げさな言い方をすれば、一人一人の哲学ないしは人生観が絡んでくるから人によって同じ量でも結論が異なる。ゼロにしようとすることと、その社会的混乱、個人の損失をどう考えるかはまさに人生観と関連してくる。

 食品添加物、残留農薬なども、安全として容認するかしないかは確かに個人個人の人生哲学によって選択されるべき一面はあるが、哲学の問題を必要とするのはある量を超えた時である。そのある量として最初にぶつかるのは、いわゆる基準値である。

 ところが多くの消費者やメディアは、「基準値を超えた量を含む食品は、いきなり健康被害に結びつく量」と捉えているために基準値が哲学の介入すべき量ではなく、廃棄という結論量になっている。さらには、これらに関してあまりにも非科学的な微量でその危険性が一部の人によって叫ばれ、メディアがその意見を見境もなくしばしば取り上げ、業界がこの考え方におもねった行動に出ている。こうした、社会にあっては、よく分からない消費者は「とにかくゼロなら問題ないでしょ」という結論に到達する。

●放射能は怖い、だけど放射能ゼロの世界は無い

 このようにして無添加商品安全神話が産まれている。食品添加物や農薬に関しては科学的に実験され求められた一日摂取許容量(ADI)のようなある閾値をもとに基準値が設定されている。したがって、「基準値以下のものをさらにゼロに近づけよう」ということを笑い飛ばしたりするのは簡単である。しかし、放射能になると少し問題は複雑である。それは、放射能に関しては科学者の公的な見解は「閾値がない」とされていないからである。

 しかし、放射能をゼロにすることは、絶対不可能と言い切れる。それは松永氏も先の記事でも指摘されている明確な事実である。そして、宇宙線や自然界に含まれる放射能などを考慮すれば閾値の無い放射能であってもあるレベル以下については問題にすること自体が極めて意味の薄いことになる。実際、それよりももっと怖い物が一杯存在していることを畝山氏が分かりやすく著書にされていることを松永氏が紹介している。ほとんど問題とならない量を論ずるときに忘れてならないのは、その量の食品なりを排除することによって失われるものは何かである。すなわち人生哲学を介入させなければいけない。

 個人的な問題であるが、小生の妹家族は孫たちと共に仙台に住んでいる。妹は、つい昨年まで調剤の業務を現役でこなしていた薬学を学んだ身で、化学物質と量の概念は一通りある筈である。しかし、小生との話の中で出てくるのは放射能に対する「ゼロでない不安」である。その不安を小生は無闇に否定できないが、少なくとも彼女はこの欄に掲載された小生の記事「瓦礫を受け入れない県知事や市町村長は日本を滅ぼす」を頭の中では納得をしてくれている。妹と放射能の問題の話をしながら、福島から距離のある仙台の住民ですらこんな心理状況にあるとすると、福島の人たちのいい知れぬ不安な気持ちは推測するに余りある。

●今は持たねばならない「ゼロでなくても大丈夫」の感覚

 小生の勤務する大学の学園祭で「福島の野菜を仕入れて販売する」学生を積極的に応援したり、市民講座で折にふれ放射線の基準値をどう捉えるかを話したりして少しでも風評被害をなくせればと自分なりに出来ることをさせていただいている。そんな活動をしながら強く感じさせられるのも消費者の「ゼロでない不安」である。この不安を解消しない限り前述の社長のように「基準値以下であっても入っている」と言うことが大きく問題となってしまい、風評被害は無くならない。

 福島およびその周辺の人たちが現実に抱えている我々以上の「ゼロでない不安」を少しでも和らげてあげる必要がある。そんなために必要なことはまず、あるレベル以上の汚染地域の除染やレベル以上の放射能を含有する食品が流通に紛れ込まない行政上の徹底した指導と対処である。

 それと並行して、一般消費者自体が意味の極めて薄い量の放射線を「在るか無いか」の単純比較ではなく、量的な概念を持ったうえで「受け入れる」考えがもう一つ重要である。すなわち「ゼロを求める」のではなく、ある量以下存在しているものに対する「ゼロでない不安」に対して「ゼロでなくても大丈夫」と納得し、そのように行動することが非常に重要である。そうした行動こそが、原発で具体的な被害にあわれている方々のためへの、一人一人ができるささやかではあっても必ずや大きな助けになる原動力となると確信している。

執筆者

長村 洋一

藤田保健衛生大学で臨床検査技師の養成教育に長年携わった後、健康食品管理士認定協会理事長に。鈴鹿医療科学大学教授も務める

多幸之介先生の健康と食の講座

食や健康に関する間違った情報が氾濫し、食品の大量廃棄が行われ、無意味で高価な食品に満足する奇妙な消費社会。今、なすべきことは?