野良猫通信
国内外の食品安全関連ニュースの科学について情報発信する「野良猫 食情報研究所」。日々のニュースの中からピックアップして、解説などを加えてお届けします。
国内外の食品安全関連ニュースの科学について情報発信する「野良猫 食情報研究所」。日々のニュースの中からピックアップして、解説などを加えてお届けします。
東北大学薬学部卒、薬学博士。国立医薬品食品衛生研究所安全情報部長を退任後、野良猫食情報研究所を運営。
講談社ブルーバックスから、
『世界は基準値でできている 未知のリスクにどう向き合うか』(永井 孝志,村上 道夫,小野 恭子,岸本 充生)|講談社が2025年6月19日付で発売されました。
2014年の同じ著者らによる『基準値のからくり』(村上 道夫,永井 孝志,小野 恭子,岸本 充生)|講談社の続編です。
「基準値のからくり」も面白かったのですが、「世界は基準値でできている」はさらにページ数が増えて取り扱う範囲も広くなっています。全てを読むのは大変でも、自分の興味のあるトピックスから読んでいけばそれほどとっつきにくい本ではないと思います。
あとがきにあるように、「基準値のからくり」では「基準というものは、考えるという行為を遠ざけてしまう格好の道具である」というフレーズが印象的でした。例えば残留農薬の基準値(MRL)超過があれば、それが何を意味するのかは考えることなく「とにかく違反だから危険に違いない、廃棄しなければならない」、という対応になりがちなことなどが代表例です。残留基準と安全基準(ADI)は違う、と何度言ったり書いたりしたことか。
それが新刊の「世界は基準値でできている」では「基準とは、私たちが生きたいと思う世界を考え、実現するための良い道具である」というフレーズに進化しています。つまり具体的な数値がどう導出されているのかの解説という側面よりも、基準となるものが明確ではないあるいは複数あるような場合にどう考えるのかの例示という側面のほうが強くなっていると思います。それが副題の「未知のリスクにどう向き合うか」につながるわけです。
私は食品安全について話をするとき、リスクの大きさについての相場観のようなものを持ってほしいと常々主張しています。お金のことだったら誰でも日常的に数字は扱っていて、お小遣いの範囲の桁と自分の権限では動かせない桁の違いは簡単に識別できています。リスクについても同じように馴染んでいれば、些細なリスク情報に接するたびに怯えることなく冷静に日々を送れるはずだと思うからです。ただ食品だけを対象にしているとどうしてもリスクの種類や幅が限定的になりがちなので、この本が扱っているような幅広い、性質の異なるリスクについて考えてみるのは役に立つと思います。
というわけでおススメなのですが、せっかくなので基準値の話題を一つ提供します。
「第9章 PFASの基準値―世界から追われる嫌われ者」、で水道水中のPFOAとPFOSの基準についてとりあげられています。この章は筆者自身が「もしかしたら本書では最も「読みごたえがある 」章かもしれない、と書いているように、たくさんの論点を含む複雑なテーマです。そこにさらに追加したいのが、EPAによる水道水中PFAS基準の時代による変遷です。EPAは2009年に暫定健康助言 PFOAについて0.4 µg/L(400 ppt)、PFOSについて 0.2 µg/L(200 ppt)としていました。
Provisional Health Advisories for Perfluorooctanoic Acid (PFOA) and Perfluorooctane Sulfonate (PFOS) January 8, 2009
それを2016年に0.07 ppb (70ppt)に引き下げました。
FR Notice on the Health Advisories for PFOA and PFOS (May 25, 2016)
https://www.govinfo.gov/content/pkg/FR-2016-05-25/pdf/2016-12361.pdf
きっかけになったのは予防接種後の抗体価への影響から、「免疫毒性」の可能性があるという判断でした。抗体価の意味については「世界は基準値でできている」でも考察されているとおり、有害影響の指標としての意味に疑問はあります。それはとりあえず別の話として、この「基準の引き下げ」によって、それまで「基準以内だから大丈夫」だったところが「基準を超過したので危険」になりました。2009年の基準であれば超過するところはあまりなく、基準値超過がニュースになることはほとんどなかったのに、2016年の基準では比較的頻繁に基準値超過が観察されるようになり、それがニュースとなって世間の関心を集め、関心が高まるとさらに多くの場所を調べる人が増え、ますます多くの「違反」が検出されるという話題のインフレがおこりました。研究費も増え、それまでPFASを研究していなかった研究者も参入するようになり学術論文も急増します。論文は基本的に出版バイアスがあるので何らかの有害影響との関連という報告が圧倒的に多くなります。
消費者製品にも使われていて一般人のPFOAとPFOSの血中濃度が高かったのは2009年より前です。EPAの指導によって企業が使用をやめ、一般人の暴露量が減っていることが確認され、あとはそのまま減っていくことを確認していればよかった、ことが「基準値の引き下げ」によってまるで新しい健康問題が発生したかのような事態になった、わけです。
飲料水や主食となる穀物のような、生きるために必須のものの汚染物質を管理する場合には一般的にはできるだけ生活を脅かすことのないよう実態に即して基準を定めることが多いのですが何故かPFOAとPFOSに関してはそういう配慮はされないようです。対照的に無機ヒ素については安全性評価が更新されてより毒性影響が大きく見積もられても基準の変更は提案されず、話題になっていません。
その後のEPAによる2022年と2024年のPFASに対する極めて低い基準の提案、そして2025年の一部基準案の廃止と先延ばしという決定は、科学というよりも時の政権の政治的パフォーマンスの色合いが強く、あまり健全ではないと思います。PFASの飲料水基準を厳しくすることと緩和あるいは廃止することがそれぞれの支持者へのメッセージとして使われている。ここでは基準とは、世論を動かすための政治的道具である、かのようです。
基準を巡る話題は尽きることがないので、出版されたばかりですが著者の皆さんにはさらなる続編を期待します。
東北大学薬学部卒、薬学博士。国立医薬品食品衛生研究所安全情報部長を退任後、野良猫食情報研究所を運営。
国内外の食品安全関連ニュースの科学について情報発信する「野良猫 食情報研究所」。日々のニュースの中からピックアップして、解説などを加えてお届けします。