環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食
食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る
食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る
農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住
(1) 田植えの歴史
苗床で育てたイネの苗を本田に移植することを田植えといいます。田植えによって、種子を本田に直接播く直播に比べ、本田での生育期間が短縮され、水稲を栽培していない期間にムギなどを栽培する二毛作が可能となります。また、大きな苗を植えることで雑草との競争力を高めるとともに、生育の良いそろった苗を選ぶことによる収量増が期待できます。
縄文晩期には北九州で始まったとされる水稲作ですが、その当時、中国大陸で確立されていた田植えの技術も渡来し、弥生時代後期の水田跡からは田植えがおこなわれていたことを示す稲株の配列跡があることから、弥生時代には田植えは始まっていたとする見方があります(土肥,2001)。その後、奈良時代から平安時代には全国的に一般化したと考えられています。手作業による田植えは、稲作作業のなかで稲刈りとともに最も多くの労働時間を必要とし、水利の関係から短時間に植え付けなければならないため、早朝から日没まで腰を曲げて作業をする重労働であり、家族や「ゆい」と呼ばれる地域の組織の共同作業として行われました。すでに平安時代から、多数の女性を田植えの労働力として動員し、気持ちを鼓舞するため音曲として田楽が伴いました。この田植え労働を行う女性を早乙女(さおとめ)と呼びます。
田植えの方法は長い間、田の形に沿って作業者が目測によって植え付ける乱雑なものでした。ようやく明治中期以降、目盛りのついた縄を張ってこれに沿って植える縄植法(写真1)や田植え定規を転がして植え付け目盛りを表土につけてから植える型付法などが普及しました。これによって、株の間隔が揃い、日が稲にむらなくあたり、風通しもよくなって収量が増えるとともに、除草や稲刈りの作業効率の向上が図られました。また、前進して植える方法と後退しつつ植える方法があり、型付法では前進、縄植法では後退する方法がとられます。それ以前は土壌が柔らかい場合には後退が主に用いられましたが、地域の慣習によって様々でした。
ところで、奈良時代の役人は兼業農家が多く、律令の仮寧令(けにょうれい)という官人の休暇の規定には、年に2回、田仮(でんか)と呼ばれる田植えと稲刈りのための農繁休暇が与えられていました(木村,2010)。私は1960年代に小学生として長野県で過ごしましたが、小学校では6月に1週間の農繁休暇があり、子供が田植え作業を手伝うことは当然と思われていました。また、農業を兼業とする先生にとっても奈良時代からあった休暇を引き継いだことになります。しかし、児童教育に熱心であった長野県では、この休暇期間に教員の研修を目的とした教育研究集会を開催するため農繁休暇として継続したという説もあり(斎藤,1995)、本当の意味での農繁休暇であったかどうかは異論があります。
ところが、1964年に開発された動力田植機の導入で、田植えの作業能率が一挙に向上し、現在ではほとんどの水田で田植機によって苗が植え付けられています(写真2)。兼業農家では休日に作業を少人数かつ短時間で片付け、家族や集落での共同作業はなくなり、祭事としての田植えの意味やそれに伴う習俗も消えました。
(2)神宮神田の田植え行事
もともと日本では、稲作そのものがカミゴトであり、特に、種まき、田植えおよび稲刈りは神聖な行事と考えられ、農家でもそれに付随する儀式を行ってきた地域があります。神宮神田(13神宮神田参照)では、それぞれ下種祭(げしゅさい:17神田下種祭参照)、御田植始式(おたうえはじめしき:初式と記載する資料もあります)および抜穂祭(ぬいぼさい)と呼ばれる神事があり、特に御田植始式には、神田の地元楠部町の有志による田楽を伴った田植えと神楽と同じように神様を楽しませ豊作を祈願する田舞(たまい)が伴っています。なお、神事と田植え、田舞を含めた全体の行事を御田植始と呼ぶようで、三重県指定無形民俗文化財に指定されています。
平安時代初期(804年)に内宮の神事について書かれた「皇大神宮儀式帳」には田植えの神事や田植えについての記録がありません。このため、平安時代初期には、神田では田植えは行われておらず、直播であったとの説もあります。しかし、同時期に外宮の儀式について書かれた「止由気(とゆけ)宮儀式帳」には、現在では廃止された外宮神田で行われていた種まきの神事において、「戸人夫(へびと)をもって、耕(かえ)し殖(う)うる状(さま)を為(な)さしめ」という記載があり、「神職の家来に、田を耕し、田植えをする演技をさせた」という意味で、当時も田植えがあり、種まき神事の際に田植えに相当する芸能が行われていたとされています(小島,1999)。
その後、田植えの神事が独立して行われるようになったのは室町時代になってからと推定され、江戸時代までは毎年旧暦5月に御田植始が行われていました(音羽,2014)。1871年の神田廃止に伴い田植えや田舞も中断しましたが、明治後期には神宮神田の田植え行事と田舞を内宮近くの猿田彦神社の神田において、楠部町の有志が引き継いでいました。しかし、1989年に神宮神田が再興された後の1924年に楠部町の青年会が神田の田植え行事を復活しました。1970年には神宮神田御田植祭保存会を結成し、会員により行事が維持され、現在に至っています(伊勢市,2009)。また、現在でも猿田彦神社では御田祭(おみた)と呼ばれる神宮神田の御田植始と似た行事が5月5日に行われています。
神田の御田植始は5月上旬の土曜日の9時から行われ、事前にウェブサイトに日程が掲示されます。式としての神事の神饌は飯、酒や干物などの質素なもので、神事の段取りも簡略化され、神職は2名の参加と少なく、祭よりも簡略に取り扱われています。まず、参加者全員が神田事務所前でお祓いを受け、その後神田祭場に集合します。祭場で神饌と早苗を3束供え、祝詞を上げた後、神職から作長と呼ばれる神田責任者へ早苗が渡され、作長はこれを神田の中央、西、東へ投げ入れます。それを、作丁と称する作業員2名(うち1名は保存会会長)が、田面に降りて手前から2条ほど植えます(写真3)。
次いで烏帽子、帷子(かたびら)、藁帯および黄襷の室町時代の衣装をつけた10名の男性と菅笠、白衣、白帯、赤襷および赤腰巻をつけた10名の早乙女が一斉に田面に降り、男女各10名ずつが交互に横一列に並び、目盛りのついた縄に沿って、後退しながら苗を植えていきます(写真1)。このとき圃場南側のテント内では、笛3名、大太鼓2名、簓(ささら)2名、大鼓(おおづづみ)1名、小鼓1名の楽人が田楽を奏します。また、耕作道西側に大黒、東側に恵比寿を描いた大団扇(ごんばうちわ)を立てた男性がこれを持っています。
苗を神田の水田3haのうち8aに植え終えると、豊作祈願のため2名の男性がそれぞれ大団扇を持って、「ヤアー」と掛け声をかけながら左右からゆっくりと田の中で重ね合わせ、三度回転します(写真4)。また、東西の畦に男性5名ずつが分かれ、竹扇で苗を扇ぐ動作があり、これはイナゴを払い除く動作を表しているとのことです。
田植えが終わると神職を含めた一同は、神田の北西 100mほどにある内宮摂社の大土御祖(おおつちのみおや)神社に移動します。本殿の前で東西2列に分かれ、「ハエヤーハエ」という掛け声とともに羽団扇をかざしながら3度回る「ほこり」と呼ばれる動作を行います。次に一人が「船漕ぎ」といって恵比寿が船を漕ぐ動作をし、藁打ち、縄ないから始めて、太鼓を米俵に見立て、担いで1回転し、倉の中に投げ入れる大黒の仕草の「とう舞」を踊り、「目出度し目出度し」といいます。再び「ほこり」を踊り、最後に笛方が抒情性豊かな変奏曲を1曲吹奏して田舞は終わります。この後、恵比寿・大黒の大団扇を神職が笏で破り、その後参加者が豊作や大漁などのお守りとしてこの団扇の断片を奪い合い、11時頃に一連の行事は終了します。
(3)田植えの衣装
神宮神田の早乙女は赤い襷、田植えや田舞を行う男性は黄色や青色の襷をしています(写真6)。襷(たすき)は、仕事をする際に衣服の袖をたくしあげたり、肩から腰に斜めにかける駅伝のランナーなどが目印とするひもや帯です。文献の初出は、天岩戸の前で天宇受売命(あめのうずめのみこと)がヒカゲノカズラを襷にかけて舞ったとされる古事記になります。また、古墳時代に出土した巫女の埴輪に襷を着用したものがあり、労働のためというよりは神への奉仕や物忌のしるしとされました。平安時代には神宮では神職がコウゾの木綿襷(ゆうたすき)をかけて神事を行い、現在でも、遷御の際に神職が左右の肩から斜めに交差する麻の木綿襷をかけます(矢野,2013)。
つまり、田植えは本来聖なる行事であったことから、手植えの共同作業において早乙女が穢れを除く神聖な色であった赤い襷を身につけて田植えに従事しました。田植機が普及する前の1960年代の田植え着は、新品の着物か、一度着た着物でも洗い清め、糊を効かせて着用し、赤い帯に赤襷を掛け、赤色の腰巻を着物の下から見せて、白手拭いをかぶり、菅笠に赤い紐をつけて顎下で結ぶのが普通でした。このように着飾って苗を植えるのは、田の神様が喜び豊作になるという思想と一日中腰を曲げて泥田の中で作業をするという過酷な労働を美しい衣装で鼓舞させるためだと、自らも田植え労働を経験した福井(1990)は述べています。早乙女の衣装は、神田では着物が白衣であることに対し、一般の農家では紺絣が多かったことの違いを除くと同一で、御田植始は今では失われた田植えの衣装や手植えの作業、田楽や田舞を間近に見たり聞いたりする数少ない機会といえます。
(4)ガイド
神宮神田:伊勢市楠部町高平乙1011
列車:近鉄五十鈴川駅下車、東1.0km、徒歩15分
バス:近鉄五十鈴川駅から「おかげバス」四郷小学校下車すぐ
自家用車:伊勢鳥羽自動車道楠部インターチェンジから南へ800m
参考資料
土肥鑑高(2001)米の日本史,p1-226,雄山閣
福井貞子(2000)野良着,ものと人間の文化史95,p1-279,法政大学出版局
伊勢市編(2009)民俗編,伊勢市史8,p1-805,伊勢市
木村茂光(2010)古代の農業技術と経営,木村茂光編,日本農業史,p69-80,吉川弘文堂
小島瓔禮(1999)太陽と稲の神殿―伊勢神宮の稲作儀礼,p1-362,白水社
音羽 悟(2014)悠久の森-神宮の祭祀と歴史,p1-336,弘文堂
斎藤 功(1995)小学校・中学校の農繁休暇の展開と地域性,地域調査報告,17,9-19
矢野憲一(2013)伊勢神宮の衣食住,p1-252,角川学芸出版
農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住
食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る