科学的根拠に基づく食情報を提供する消費者団体

執筆者

平川 あずさ

食生活ジャーナリスト、管理栄養士。公益社団法人「生命科学振興会」の隔月誌「医と食」副編集長

あずさの個別化栄養学

「食育」は誰のものか。暮らしに根づく「食育」を(1)

平川 あずさ

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 家庭で作られる料理を華やかな写真で伝えるSNSの投稿が非常に増えている。それらに写される美しい料理を見ていると、各家庭で豊かな食生活が育まれているのではないかというイメージだけが、どんどん先行して膨らんでいく。
 親がこどもたちにかなり完成度の高い料理を教えることも流行している。書籍や雑誌などで、わが子を有名大学に入れるための食事なども紹介されているが、見た目も栄養も完璧な内容だから驚くこともしばしば。このように、プロではなく一般の人たちが本格的なきちんとした家庭料理を披露しているのを見ると、わが国では「食育」が進んでいるのではないかと思ってしまう。
 しかし、家庭・家族には「決まった形」「正しい姿」があるわけではない。大切なのは親子の関係性であり、流動的な共同体なのだ。家庭の食事もそうだろう。
 それなのに、これらSNSやメディアから発信される「家庭の食卓」は、美しいがあまり生活感が感じられない。料理を作って発信する親たちは頑張っているのだろうが、なぜか家庭に食育が根づいていないような印象も受ける。そこで今回は、親たちが頑張りすぎる現象から見えた「食育」について考えてみたいと思う。
 「食育」は幅広い世代に対して行われるものだが、ここでは幼児期の「食育」に焦点を当てる。

●「食育」の危険性を教育者は理解しているか

 食育基本法ができてもうすぐ12年。「食育」という言葉は広く普及した。しかし、食育を中心になって進めてきた栄養士たちは、人々の食生活を「理想的な形」に改善する教育活動を安易に考えていなかっただろうか。「その子の家庭の事情に思いを寄せることをせず、その子の食事について否定的になったり、正しい食事の『鋳型』にはめ込もうとしたりすること、プライバシーへの配慮を怠ること、それがいかに残酷なことか、『いじめの芽』にもつながるのではないかということについて考えが至らないようでは、栄養士・栄養教諭は『教育者』にはなれないと思います」と話していたのは、当時月刊「食生活」編集長であった清原修志氏である。しかし、基本法制定から12年経っても、こういう議論はあまりなされていないように思う。そしてこの提言は今、栄養士や栄養教諭だけではなく、保護者たちも考えるべきことではないだろうか。

●得手不得手があっていい

 管理栄養士である筆者に、「いつ頃から包丁を使える?」「いつ頃から火を使う?」「いつ頃からお味噌汁を作らせたらいい?」などと質問をしてくる親たちに出会うことがある。理想的な情報、こどもの作った美しいSNSの料理写真だけが飛び込んできて「うちでは、そんなことできない」と真剣に悩んでしまっているようだ。本来は家庭ごとに違って当たり前だし、食育とは積み重ねの上に存在していくものなので、いつからなどとマニュアルで決められるものではない。
 食育を自宅学習の「カリキュラム」の中にうまく取り入れて、毎日こどもが料理を作ることを日課にし、習慣化しながらうまく訓練を積ませている親たちも見受ける。それはもちろん素晴らしいことである。それらは「押しつける」食育ではなく、その子自身の持っている潜在能力に、大人がうまく寄り添えて、自然に育てているように思える。
 しかし、料理に得意、不得意があるように、教えることにも得意、不得意があるのが当たり前で、そんな「理想」のお母さんたちがやっている食育を真似しようとしてもなかなか難しい。家庭での「食」は一様ではないからだ。
 では「食育」の最初の目標は何にするべきだろうか。自宅で長年料理教室を開き「食育」に詳しいキッズ食育コンサルタントのサゴイシオリ氏に聞いた。
 「食に興味を持つことはとても大事だと思っています。厚労省が出している食育の目標には、『楽しく食べるこどもに』というものがありますが、それが私の『食育』の第一の目的です。料理教室をやっていて、その場で『楽しい』ということはとても大切ですが、その楽しさから沸き起こる興味・関心が毎日の暮らしの中で自然に広がっていくことがさらに大切だと感じます。
 こどもが作ったという凝った料理写真等をネットなどで目にしたら、食育に対して焦りや負担を感じるお母さんもいるのではないでしょうか。調理技術を教え込むことばかりが『食育』ではありません。
 例えば、音楽で考えると分かりやすいかもしれません。ピアノが弾けないし、作曲ができなかったとしても、その子は鼻歌を歌うと楽しいと感じ、みんなで遠足の時に歌う歌を楽しいと感じる。そんな楽しいという気持ちが『食』によって育まれていくのが『食育』だと思うのです。もっと日常の中にある素朴な食育でいいのです」

 なるほど。レシピを教え込まずとも(ピアノを弾くように料理が作れなくても)、そばに寄り添って見ているだけでもいいし、「何かお手伝いはある?」と聞いてくるようだったらよしとするくらいでいいのかもしれない。最初は味見だけだったこどもが、野菜を触って洗ったり、皮をむいたり、すり鉢で胡麻をすることを「やりたい」と言ったり、食事作りの何かに関わりたいと自主的に思うことが大切で、そのタイミングはどの家庭にも訪れる。その時に「忙しいからあっち行ってて」ではなく、こどもを受け入れてその場を一緒に居られるかにかかっている。
 「お母さんはいつもこんな風にご飯を作ってくれているのか、大変だなぁ」とか、「この野菜はスーパーでこのくらいの値段なんだ」とか、「このお料理はどのお皿が合うかな?」とか、考えること、知ることだけでもこどもはもう、「食育」の小径に足を踏み入れたことになるのだ。

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 イベントとしての華やかな食育、写真に収めてSNSにアップするための食育は、それぞれの家がずっと継続できる食育につながるだろうか。小さな料理人を育むことばかりが「食育」ではない。「理想的な食事」の情報が氾濫する中で、料理が苦手な保護者にとってはかえって負い目になってしまうこともある。例えば「できる範囲で、家族みんなで食卓を囲む」など、何かその家庭において取り組みやすいことから少しずつ始めてはどうだろうか。
 各地域において「食育」を指導したり、実践したりしている人々の取り組みが、暮らしに根ざした「食育」につながるように、こどもたちと保護者たちを社会で包み込んでいきたい。保護者が働きに出ている場合には、ご飯を作ることだけでも毎日大変なことである。それでも料理を作ってくれれば、その味から子どもは安心感を覚えるだろう。たとえ忙しくて料理を全て作れなかったとしても、用意してくれたことで気持ちは伝わる。
 「食育」の形は、家庭ごとに違っていい。家族の関係性、お互いの心のやり取りを感じられる食卓作りが現代の「食育」の始まりではないだろうか。そのやりとりが自然に楽しくて、無理のないものにしたい。日々の暮らしが「食育」につながるので、焦らず、地に足をつけて取り組みたい。次回は具体的な実践例について取材して紹介したい(つづく)。

執筆者

平川 あずさ

食生活ジャーナリスト、管理栄養士。公益社団法人「生命科学振興会」の隔月誌「医と食」副編集長

あずさの個別化栄養学

食べることは子どものころから蓄積されて、嗜好も体質も一人一人違う。その人その人の物語に寄り添うNarrative Medicineとしての栄養学を伝えたい