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タイの地政学的リスクにさらされていると、小さく感じる食のリスク

森田 満樹

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 タイ・バンコクでは、反政府勢力デモ隊による2つの空港占拠が、もう1週間以上も続いている。占拠は今日をもってようやく解除されることとなったが、先行きはまだ不透明だ。タイの政情不安は今に始まったことではないが、こういうことがあるとつくづく政治リスクの高い国に住んでいたのだと思い知らされる。リスクといえば、ここはデング熱のような東南アジア特有の感染症のリスクも大きい。このような国に暮らしていると、幸か不幸か、食の安全上のリスクが相対的に小さく感じられ、日本が特別の国のように思えてくる。

 タイでは今年8月、反政府市民団体である民主主義民衆連合(PAD)のデモ隊が現政権の打倒を目指して総理府本部を占拠して以来、ずっと政治混乱が続いている。9月に非常事態宣言が出た当初は、日本でも大きく報道されたと思うのだが、バンコク市内はまだ平穏だった。しかし、その後は私たち日本人が住む地域にまでデモ隊が押し寄せたり、デモ隊と警官隊が衝突したりと次第に反政府運動が過激になっていき、あれよと言う間に今回の空港占拠に発展した。タイに長く住む人でも、守旧派と新興勢力の対立がこれほどまでに激化したのを見るのは初めてだそうで、日本の明治維新に相当する大きな転換期に突入したのではないかという。問題は、勝海舟や西郷隆盛といった人物がいないということらしい。

 それはさておき今回の空港占拠は、多くの在留邦人が迷惑を被っている。9月の非常事態宣言や、2年前の軍部クーデター時とは比べ物にならないくらいほど大きな影響だ。国内外の移動もままならず、国際郵便物は届かず、輸出用の花や青果物などの食品は倉庫で腐っている。出張者や旅行者は足止めを食らい、イベントや催し物は中止。航空貨物もストップして部品や材料が届かず、工場のラインが止まっているという話も身近に聞く。

 また、帯同家族に受験生がいる場合は深刻だ。この時期は、帰国生受験が始まっているのだが、シンガポールや日本の受験会場に移動できない。とにかく第三国に出国しようと、マレー鉄道でマレーシアへ、バスでカンボジアへと向かうのだが、タイ南部はイスラム過激派による爆発事件が多発しており、別の意味でリスクが伴う。空港は再開したがダメージも大きく、旅客を通常通り運べるようになるまでには当分かかりそうだ。

 それでも日本人が多く住む狭い地域に限定すれば、買い物や病院、交通といった日常生活に大きな支障はない。しかし遠出は禁物だ。空港周辺はもちろん、国会議事堂周辺の街中では、黄色い服装の反政府市民団体と、赤い服装の現政府支援団体がデモ活動を繰り広げている。外出するときは、誤解を受けるから黄色も赤色も着ないように、服装にも気を遣う。車の外出時は警察の検問に引っかかることも多いので控えているが、子供の学校が空港近くにあって、周辺道路が警察によって閉鎖されることも多く、その度に携帯メールで連絡がくる。毎日が緊張の連続だ。

 しかし何よりも不安なのは、先行きの状況が不透明なことだ。昨日の段階では、憲法裁判所の判決により、現政権は昨年末の選挙違反に絡んで解党を命じられ、ソムチャイ首相は政治生命を断たれて政権は崩壊した。外国人からみれば不法としか思えない空港占拠デモ隊は、警察から取り締まられることも一切なく、現政権打倒という目的を達成して大喜びで、占拠を本日から解除するという。さらに5日はタイ国民にとっては最も大切な日、国王誕生日だが、その前日には国王が和解に向けて何らかの御言葉があると期待されており、このまま一気に解決に向かう可能性もある。

 しかし、現政権のタクシン派は選挙によって民主的に選ばれたのであって、解党しても名前を変えて、また選ばれるだろう。対立の溝は埋まらないまま、来年も引き続き不安定な政治が続くことも考えられる。世界的な景気後退の中で、タイ経済に与える影響も甚大だ。この国はいったいどこにいくのだろう。

 こうした地政学上のリスクの高い国に住んでみてはじめて、つくづく日本は平和な国だと思う。日本の政治もどうかとは思うが、それでも政治上の問題から、国民が直ちに不安に陥れられるようなことはないだろう。政治上のリスクが、国民の生命を脅かす国が世界中にはほかにもいくらでもある。タイの隣国ミャンマーもカンボジアも、決して平和とはいえない。

 ところで、日本では経験できないリスクは、ほかにもある。東南アジア特有の感染症のリスクとしてデング熱、マラリア、狂犬病があげられる。あまり馴染みのないところでは、タイ肝吸虫やブタレンサ球金などの聞いたことのない感染症もあって、タイの北部では集団発生しているそうだ。特にデング熱は、今年は当たり年だそうで猛威を奮っており、私の身の回りの友人も何人かが患った。いつの間にか蚊に刺されて、数日後に突然発熱して顔が腫れて数日で発疹するそうだ。これが1回で済めばよいが、再感染となると症状が重くなることがあり要注意だ。予防接種もないし、マンションの中で刺されて感染したという話を聞くと、どうにも防ぎようがないような気もする。

 狂犬病も日本では発生していないが、世界では約5万5000人が死亡しているという恐ろしい人畜共通感染症だ。タイでは最近は減少傾向にあるが、年間20例ほど報告されている。病原ウィルスを持った犬に噛まれて感染すると、ほぼ100%死亡する。日本でも2年ほど前にフィリピンで犬に噛まれて帰国した日本人2人が、帰国後に死亡したことは記憶に新しい。タイに来た当初は、道路のあちこちにいる野良犬が恐ろしかった。予防接種は受けているし、もし噛まれてもすぐに病院で処置をすれば大丈夫とは頭で分かってはいるが、通りの入り口に何匹もいる野良犬が怖くて、今でも遠回りしている。

 またタイでは鳥インフルエンザの発症リスクもある。これまでタイ国内で報告されている鳥インフルエンザ(H5N1型)に感染したヒトの発症例は25例あり、うち死者は17例報告されている。近隣国のインドネシアやベトナムに比べればましだが、このところ、タイの北部、中部、南部で死んだ鳥から鳥インフルエンザウィルスが相次いで確認され、監視体制が強化されている。

 日本でも新型インフルエンザの発生が懸念されているところであるが、もしこの国で発生したら、どうなるのだろうか。在留邦人は、出現時期や流行規模によっては渡航が延期される場合もあるという。帰れなくなったらどうしよう。こうやっていろいろなリスクを予測していくと、きりがないのだが、いずれのリスクについても適切な最新情報を入手しておくことが最大の防御策になることだけは間違いない。

 最後に、この国の食のリスクに関して言えば、お腹を壊す、下痢になるリスクがとにかく大きい。東南アジアのガイドブックには、水や食べ物に要注意というのは、よく書いてあることだが、まさにその通りだ。汚染された水や食品によって感染する東南アジア特有の感染症として、腸チフスやコレラ、赤痢、肝炎や寄生虫があり、さまざまな細菌性食中毒の発生率も高い。こうやっていろいろなリスクの大きさを目の前に並べてみると、私がこれまで取り組んできた残留農薬や食品添加物、遺伝子組み換え食品といった食品安全のリスクは、相対的に小さく感じてしまう。

 この国では、健康に影響のないよう規制されている化学物質や新規食品のリスクについてはあまり問題にならない。最初はそれが不思議だったが、この頃は、この国の人の感覚が少しずつ分かるようになってきた。こちらの感覚からいえば、食べられる食品を回収したり、廃棄処分する日本のほうが、よほど不思議なのだ。こういうリスク感覚を体感できるのはいいことなのかどうか、よく分からないが、貴重な体験であることは間違いない。(消費生活コンサルタント 森田満樹)