多幸之介が斬る食の問題
こちらの記事は以前に、日経BP社のFoodScienceに掲載されていた記事になります。
こちらの記事は以前に、日経BP社のFoodScienceに掲載されていた記事になります。
先週、「この世に存在しない“ラクッコピコリン”に秘められた研究者の責任」と題して「あるあるのデータ捏造問題」を書かせていただいた。その記事を読まれたどなたかが、毎日新聞社にご連絡されたことが、先週の日曜からの「あるあるデータ捏造騒ぎ」になった。そして、私はマスコミの、まさにあるある的取材により「何故もっと早く告発しなかったのだ」とパッシングを受けている。この件に関しては「真相 あるある怪(?)辞典」をお読みいただけば、研究者とメディアのモラルが問われるある真実がご理解いただける。
華々しく「捏造」が問題として取り上げられるのは、科学者とマスメディアの2つに圧倒的な数が集中している。科学の世界では、ある仮説を立て、それを実証するための非常に地道な実験研究を行い、ある結果、または1つの数値が出てくる。当然ではあるが、仮説が正しいとするならば得られる結果は理論的に予測ができる。
それが報告という段階になれば、その書き方次第で結果を良くも悪くもできる。何故かと言えば、報告は連続的な実験過程をすべて詳細に記述するのではなく、連続した事象のうち重要な点のみを記述することになるからである。すなわち、連続的な事象を飛び飛びの不連続な点から説明することになる。
この不連続な点の中に事実と異なった点を混入させれば、全体としては事実の過程と異なった結果となる。しかし、その結果が理論的に予測されるものと一致するものであるならば、報告者には都合が良くなる。マスメディアの報道においても場面、または記事として報告される点の連続からある事象を説明している。その事象を構成させる点に事実と異なった点を混入させると、当然異なった結果が出る。しかし、それが望んだ結果であれば混入された点は報道という場面において威力を発生させる。
科学者もマスメディアも報告を受け取る世界の人に、あっと感じさせる力、すなわち、インパクトが強ければ強いほど高い業績として評価される。そこに、つい「捏造」の誘惑が働くと考えられる。今回の「あるある」の場合も毎週、あっと驚く報告をしなければならないという追い込まれた状況から事実と異なった点を挿入し、発生したものと推測する。
ところで、「真相 あるある怪(?)辞典」の記事は手前味噌になって恐縮であるが、私がやっている「健康食品管理士認定協会」のホームページ最新情報の、納豆関係の記事に掲載させていただいている。これをお読み頂けば今回の「レタスと快眠」においてメディアに関係するとき、研究者はどうあるべきかの姿勢が浮き彫りとなって見えてくる。ぜひ、ご一読ください。(千葉科学大学危機管理学部教授 長村洋一)