多幸之介が斬る食の問題
こちらの記事は以前に、日経BP社のFoodScienceに掲載されていた記事になります。
こちらの記事は以前に、日経BP社のFoodScienceに掲載されていた記事になります。
前回のこの欄に、無添加を売り物にすることのナンセンス論を展開させていただいた。その波紋が少し広がっているようである。その波紋から無添加表示の有する意外な一面が明らかになってきたので、続報としてお知らせする。問題にしたいのは、無添加表示がもたらしてしている精神面の弊害についてである。
まずある方からのメールであるが、「無添加を標榜した回転寿司の無添加が、4大添加物と称して指定添加物の追放に重点を置いてナンセンスを論じている先生の記事を読んで、私自身で調査したらその通りであった。従って、確かに多幸之介先生のおっしゃるように無添加にする必要などまったくないことが分かった。となると、あれだけ仰々しく無添加を標榜する回転寿司がある中で、無添加を標榜していない回転寿司に行った時に、この寿司屋は美味しいけれど大丈夫かな?と心配しながら食べていましたが、あの記事を読んでから、自分がいつも行く寿司屋が美味しくて問題のないことが分かって“安心”して行けるようになり、ますますその寿司が美味しくなりました」という報告であった。このメールは、「安心して行けるようになり、今まで以上に美味しく感じられるようになった」という無添加表示がもたらす精神面の弊害を、気付かせてくれた。
この記事が直接的な原因ではなかったが、最近たまたま生活協同組合コープ神戸広報室の取材を受けた。その取材の主な目的は、生協の会員の方に会報を通して無添加至上主義にあまり意味が無いことを知らせることにあった。私はその会報の取材に対し、先月のこの欄の記事や、私が主催している健康食品管理士認定協会の会報に掲載した記事などについて話をした。
会報の記者は取材を終えられた後で、「無添加至上主義の多い会員通信に先生からうかがった内容を、どこまで理解できるように伝えられるか自信がありませんが、今日は本当に新しいお話をいただきましてありがとうございました」と挨拶された。さらにその後、「でも、先生のお話をうかがって、今までは出汁の素を使うたびごとに罪の意識を感じていましたが、食文化の1つのあり方だということが分かって気楽に出汁の素が使えるようになりそうですし、使った料理を美味しいと素直に感じても良いことが分かって随分と気が楽になりました」とおっしゃった。
記者が帰られた後で研究室に戻り「今取材に来られた生協の方が、小生の話を聞いて罪の意識なしに出汁の素が使用できる気になれて随分楽になった、と喜んで帰られた」と話したところ、大学院生の1人が「先生、私もそうですよ、最初先生から添加物の話を聞いたとき随分とカルチャーショックを受けましたが、あれ以来出汁の素を使用するようになり、美味しい物を素直に美味しいと感じられるようになって、気が楽になりました」と言い出した。そこにたまたま居合わせた事務職員の女性も「私も先生の話を聞いてから罪の意識なしに出汁の素が使えるようになり、それでおいしく感ずることが悪いことではないと考えるようになって気が楽になりましたよ」と追加発言があった。
実は、同じような発言は市民講座で小生の話を聞いた方の感想として何度か耳にしてきた。その人達に共通しているのは、出汁の素を使うことに罪の意識が無くなったことと、そのことによりそれまでよりも素直に美味しいと感じられるようになった、ということであった。生協の記者の取材話がきっかけとなり、研究室では暫く添加物と罪の意識と味の問題が議論の対象となり種々な話題に花が咲いた。
その議論の中で明らかになってきたのは、記者や大学院生の罪の意識は、うま味調味料を使用することが料理をするものの手抜きであるという無添加を大切にする人達の食文化論的なものに根ざし、冒頭の回転寿司の場合は食品添加物を危険な物と考える観点に根ざしている。いずれにしろ彼らには今まで無添加が良いと考えていたことが単に観念的なものではなく、微妙な形で味にまで及ぶ精神的圧力となっていたことが明らかになった。
その議論を行っている場に、奥さんが徹底した無添加主義の研究者がいた。私は彼に「先生のご家庭では味噌汁の出汁はどうしていますか」と尋ねたところ、「家内は鰹節から出汁を取って毎日の味噌汁を作っています」と回答された。そこで、さらに私が「じゃー、外食したりして出汁の素を使った料理に遭遇すると違いが分かるのでは」と尋ねた。「実は、私は外で食事をするとき、化学調味料の味がしてまずいと思うんですよ。少し、贅沢ですかね」と申し訳なさそうに応えた。彼は研究室の付き合いとしては我々の行く街中のレストランや居酒屋に出かけるが、家族で出かけるときにはそういう料理屋ではなく、名の通ったレストランか料亭のようなところしか行かないそうである。
私は「無添加の料理を食べていると、添加物を使用した食事がまずくて食べられなくなりますよ」と言う人に何人か出会って知っている。その人達は、無添加こそ本物の味であり、添加物を使用した料理を旨いと感ずるのは下賎の民である、というようなニュアンスの発言を良くされる。しかし、こうした発言を聞くたびに私は違う感情が湧いてくる。
私には煮干が出汁である味噌汁の味は小さい頃を思い出すことのできる自分の育った家庭の味噌汁の味であり、家内が鰹節の出汁や出汁の素でつくる味噌汁もすべて美味しいと感じて家の中でも外でも、どれも楽しく食べている。しかし、出汁の素を使った料理をまずいと考えている人たちは、多分私の家内が出汁の素で作った美味しい味噌汁をまずいというに違いないと思う。そうなると私は家内が出汁の素を使った料理を作ってくれることに強い感謝の念が湧いてくる。それは、どんな料理も美味しいと感じて食べられるからである。出汁の素を使用した料理が危険な食事であるならば、味で区別ができて食べられないと言うことは重要であるが、危険でないとしたら食べられるほうが幸せだと感じている。
小生の研究室に食の問題を生理学と心理学の両面から追求している研究員が共同研究者としているが、彼女も研究室でのこの無添加論議に加わっていて「小さいときからうま味調味料だけを使用した料理を食べて育った子供の中には、うま味調味料を使わない料理をまずくて食べられないとう問題もありますよ」と重大な発言をした。そして、この論議は大きな結論を生むことになった。それは、彼女のこの発言と先述の無添加主義者がうま味調味料をまずいと感ずるという2つの現象から明らかになってきたのは、どちらか片方しか知らない人はそうでない料理をまずく感じるようになってしまう可能性があることである。では、このどちらが正しくあるべき姿で、どちらが間違いかという問いを投げたら「どちらも気の毒である」と明確な回答をしたい。それは「何でもおいしく食べられることは幸せなことである」と私は考えているからである。
うま味調味料を容認するとしても、その使い過ぎを問題にして、結局は無添加が良いという結論を論じておられる方にも時々遭遇する。しかし、塩、砂糖、コショウなど、どの調味料も信じられないくらいたくさん使用する人たちがいる。そして、その人たちが美味しいといって食べる料理を私は残念ながらあまりおいしくないと感ずる。すなわち、ここにも料理に添加する化学物質の量が大きく関係をしている。うま味調味料を使い過ぎてはいけないという注意は、塩や砂糖を使いすぎてはいけないと言う注意と同次元の問題であるから、片方を使用禁止にするのは奇妙なことである。大事なことは、使わないことではなく、使い過ぎないことである。
少なくとも、安全を守るためとか手抜きになるからと言ってうま味調味料を使用することに罪の意識を感ずる必要性がないことは明らかになった。そして、そうした精神的圧迫感を持ちながら美味しい食事をまずくすることは、つまらないことではなかろうかと私は考えている。ただ1つ明らかなのは、どちらも極端に偏ると結局は味に関する感受性の世界が狭くなってしまうことである。食文化を大きくしていくのにはひたすら伝統を守るという姿勢も必要であるが、新しいものを取り入れていくのもまた食文化の1つの方向であり大切なことである。(鈴鹿医療科学大学保健衛生学部医療栄養学科教授 長村洋一)