科学的根拠に基づく食情報を提供する消費者団体

執筆者

唐木 英明

東京大学名誉教授。食品安全委員会リスクコミュニケーション専門調査会専門委員。日本学術会議副会長

安全と安心のあいだに

二つのパラダイム

唐木 英明

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 放射線の作用には2種類ある。一つは「確定的影響」と呼ばれるもので、250mSv以上で白血球の減少、500mSv以上でリンパ球の減少、1000mSv以上で嘔吐や水晶体混濁などの急性放射線障害、2000mSv以上で出血や脱毛と5%の死亡、3000から5000mSvで50%の死亡、そして7000から10000mSvで99%の死亡が起こる。しかし250mSv以下ではこのような影響が出ないので、この作用には健康に被害がでる量の限界、すなわち「しきい値」があると考えられている。

 
 もうひとつの作用は発がん作用だ。放射線は遺伝子に直接作用して、あるいは細胞内で活性酸素を生成することによって遺伝子に損傷を与え、その結果、がんになることがある。しかし、放射線を浴びた人が全員がんになるわけではなく、その可能性が増えただけであるため、「確率的影響」と呼ばれる。また、がんができるまでに長い時間がかかるので、「晩発性」の影響とも呼ばれる。白血病は被ばくして2、3年後、乳がん、甲状腺がん、食道がん、胃がん、肝臓がん、肺がんなどの固形がんは被ばくの10年後くらいから増加し始める。

 
 多くの研究によれば、100mSv以上の放射線を浴びた人たちはがんになる確率が増加し、その割合は1000mSvあたり5%と考えられている。しかし、100mSv以下の量では、がんのリスクが増加するのか明らかではない。そこで確率的影響にはしきい値がないという説と、100mSv程度をしきい値と考える説が対立する。それぞれの説を唱える研究者がよって立つ基本的な考え方、すなわちパラダイムが違っているのだ。

 
 放射線は医療や産業に広く利用されているが、その際に大事なことが安全であることについては、両方は一致している。そこで放射線の規制は、「確率的影響にはしきい値がない」という前提で、厳しい安全管理が行われている。また、乳幼児や胎児は放射線の影響をおとなの3倍程度受けやすいことが分かっているので、配慮することになっている。

 
 放射線の防護について勧告を行う国際放射線防護委員会(ICRP)は、一般の人々が1年間に受けてもよい人工放射線の限度を1mSvにすべきであると勧告している。ゼロではなく1mSvである理由は、ゼロという規制が実現できるのかという問題と、もう一つは自然の放射線の存在だ。

 
 私たちは空気中のラドンなどの放射性物質から1.26mSv、食品中のカリウム40や炭素14などの放射性物質から0.29mSv、大地や岩石から0.48mSv、宇宙線から0.39mSv、合計年間2.4ミリmSv程度の放射線を浴びている。この量は地球上の場所により違う。またこれをゼロにすることは不可能である。このような状況を考えて、自然放射線レベルを大幅に超えないことを目標にしている。

 
 また、私たちの約50%はいずれがんになり、約30%は致死性のがんになる。放射線を浴びることだけががんの原因ではなく、実はがんの1/3は喫煙、1/3はバランスが悪い食事や過食が原因といわれる。これに比べて100mSv以下の放射線の影響は0.5%程度であり、喫煙習慣や食生活の改善により簡単に帳消しになる。このような事実に基づいて、「しきい値がない」と考える人も、「しきい値がある」と考える人も、年間1mSvという基準に大きな反対はない。

 
 このように年間1mSvという基準とは、「これを越えたら危険」という限界ではない。「これを超えないように注意し、もし超えたら元に戻すような管理対策を始めましょう」という基準だ。

 
 問題は今回のような事故が起こったときだ。基準を超える汚染地域の広さと住民の数は、基準をどのように設定するのかで変わる。重要なことは住民の健康を守ることだから、基準の設定は厳しいほうがいい。しかし、避難する人たちの肉体的、精神的、そして経済的負担も大きさも考えなくてはならない。たとえば、避難のストレスが各種の疾病を引き起こす可能性も指摘されている。その両面を考えて、政府はどの程度の規制を行うのかを決めなくてはならない。

 
 この難しい問題に直面した政府に対して、ICRPが以下のような提言を行った。
1. 緊急時に一般の人たちを放射線の被害から守るために、20から100mSvの範囲のどこかに最大被ばく線量を設定して、それを超える土地から避難する。
2. 放射性物質の漏出が止まっても汚染地域は残ることになるが、人々の健康を守り、しかも人々がその地域を見捨てずに住み続けることができるように、規制値は年間1から20mSvの範囲で設定し、長期間の後には年間1mSvになるような措置をとる。

 
 これを受けて政府は20mSvを緊急時の規制値として、今後1年間でこれを越えると予測される地域を計画避難地域とすることを決定した。

 
 このように、ICRPは平常時に受ける放射線量は、「しきい値がない」という考え方に沿って、できる限り少なくすることを原則にして、年間1mSvを目指すが、緊急時には厳しい規制のメリットとデメリットを冷静に判断して、現実的な対処をすること、すなわち実質的に「しきい値がある」という考え方を取り入れることを提言しているのだ。

 
 通常の規制値が1mSvなのに、緊急時の規制が20mSvでは大きな差がありすぎるという議論があるが、科学的な根拠に基づいて、厳しい基準のメリットとデメリットを冷静に判断することが必要であろう。

執筆者

唐木 英明

東京大学名誉教授。食品安全委員会リスクコミュニケーション専門調査会専門委員。日本学術会議副会長

安全と安心のあいだに

消費者が絶対安全を求め、科学的根拠のない安心を得ようとするのはなぜなのか? リスクコミュニケーションの最前線から考える