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執筆者

谷山 一郎

農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住

環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食

32 神酒3・・・醴酒と清酒のなぞ

谷山 一郎

写真1 内宮神苑前での神宮奉納三重県産清酒の飾樽の設置(2014年10月1日)

写真1 内宮神苑前での神宮奉納三重県産清酒の飾樽の設置(2014年10月1日)

(1)醴酒

 神宮の三つの重要な神事である三節祭で用意される4種類の神酒のうち、醴酒(れいしゅ)は、三節祭以外の年間1500回を越える祭事の神饌でも供えられます。社殿前の案と呼ばれる机の上に配置された醴酒を遠目に眺めると三寸土器の上に全粥状態で盛りつけられているのが分かります。神宮では、その性状や製造法について明らかにせず、一夜酒(ひとよさけ)とも呼び、延喜式に書かれている醴酒とはかなり異なるとだけ言及しています(石垣,1991)。おそらく、麹、蒸し米、水で短期間発酵させ、税務署の調査を受けないアルコール分1%未満のいわゆる甘酒と呼ばれる食品なのでしょう。

 醴酒は中国を起源とし、周王朝(前11-前3世紀)の文献に表れますが、宋代(960-1279年)には消えてしまったので、その性状・製法についてはよく分からず、さまざまな説があります。その代表は、古代中国の黄河流域の畑作地帯で、原料は麦を主体とする雑穀を粉にして水を加え、麦芽の粉を混ぜて発酵させた麦芽糖の多い甘い酒だったというものです(吉田,1993)。

 紀元前3世紀頃の中国戦国時代の思想書荘子山木扁に「君子の交わりは淡きこと水の如く、小人の交わりは甘きこと醴の如し」とあり、醴酒が甘いことが指摘されています。ちなみに、茶道における「淡交」という熟語や日本の戦国時代の武将黒田官兵衛の号「如水」はこの言葉に由来するものです。

 その後中国では麦芽の代わりにカビを用いた麹が糖化に使用され、長江流域の稲作地帯では、雑穀の代わりにウルチ米の粥や蒸し米を米麹で発酵させた酒に発展し、それが朝鮮半島や日本へ米作とともに伝わったと言われています。しかし、日本では独自に麹利用が行われたという説もあります。

 この醴酒は、「日本書紀」には、応神天皇19年(伝承では288年)に奈良県吉野の住人である国樔(くず)が醴酒(こさけ・こざけ)を献上したという記述が見られます。奈良時代の歴史書「続日本紀」には717年に現在の桑名市の多度山から汲まれた醴泉(おいしい水の泉の意味)の水で醴酒を造り、元号を養老に改元したとあります。醴水から醴酒が作られた年の年号を養老と名付けられたのは、この醴水で手や顔を洗うと皮膚は滑らかとなり、痛いところに浸すと痛みが取れ、水を飲むと白髪は黒くなり、はげた部位に髪が生え、病気もすべて回復するという老化現象を抑制する効果があったといわれているためです。現代の機能性食品のうたい文句と通じるところがあり、1300年たっても人の悩みは変わらないのが興味深いところです。ちなみに、孝行息子が発見した酒が湧き出る養老の滝の伝説は、鎌倉時代の説話集「古今著聞集」や「十訓抄」に基づいています。

写真2 平安宮造酒司の倉庫跡。床面の丸い印は柱跡(2017年4月28日)

写真2 平安宮造酒司の倉庫跡。床面の丸い印は柱跡(2017年4月28日)

 奈良時代の醴酒がどのようなものであったかはよく分かりません。平安時代(905年)に編纂された法令書の延喜式には、酒造りを担当する役所である造酒司(写真2)において、醴酒は汲み水の代わりに酒が使われ、米麹の量も33%と多く、夏期に製造するため糖化が進み甘味が増すなど、味醂系の再生酒として醸造されていたことが記されています(加藤,1985)。また、醴斎(れいし)と呼ばれる酒は大学寮で孔子を祭る際に供えられる濾過した酒でした。

 平安時代(930年代)に作られた辞書、和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)には、醴酒は音では「れい」、和名は「こさけ」、「一日一宿酒なり」とあるように1日だけ発酵させたアルコール度の低い酒でした。なぜ「こさけ」と読むのか分かりませんが、おなじ発音の「こさけ」に「粉酒」があります。これは、穀物粉を原料にして仕込み、糖化・発酵させた酒と推定されています(加藤,1985)。したがって、醴酒もかつては米粉が用いられた可能性があります。

 神宮では、平安時代初期(804年)に外宮の行事などについて書かれた「止由気宮儀式帳」に、「火向神酒(ほむけのかんみき)」と「火無浄酒(ほなしのきよさけ)」という酒がでてきます。火向とは火にかけた酒、火無とは火を用いないで造った酒という意味です。火向神酒が、平安時代または現在のどの酒に当たるかはいろいろな説がありますが、米を加熱した後、短時間で糖化させることから、米粒がそのまま残った神宮の醴酒に相当するという解釈があります(桜井,1974)。醴酒の定義は様々ですが、現在、醴酒という名称の食品を醸造しているのは神宮だけのようです。

(2)清酒

 神宮の毎日二度の常典御饌を含む神饌に必ず供えられるのが、神宮では清酒(せいしゅ)と呼ばれる、白鷹(はくたか)株式会社が納入する日本酒です。白酒や黒酒のような濁り酒ではなく、もろみから酒粕を固形分として除去する濾過課程を経た透明な日本酒になります。

写真3 平城宮造酒司跡の復元井戸(2017年4月28日)

写真3 平城宮造酒司跡の復元井戸(2017年4月28日)

 7世紀前半の飛鳥の宮から「須弥酒(すみさけ)」と記された木簡が出土しました。この須弥酒は濁り酒をしばらく置いておいてその上澄みを取り分けたか、または布などで濾過して透明度を増した酒と考えられています。奈良時代、平城宮の造酒司跡(写真3)から出土した木簡には「清酒中」と書かれたものがあり、等級が中の澄んだ酒がつくられていたことがうかがえます(橿考研,2013)。

 文献では、奈良時代の「播磨国風土記」に清酒で手足を洗うという文があり、同じ時代の「正倉院文書」の正税帳に各地方から浄酒(すみさけ)と称する濁りの少ない酒が税として納められたことが記されています。

 平安時代、「延喜式」造酒司の章では、酒造りの道具の中に、「篩料絹五尺」、「糟垂袋三百二十条」などの記述があり、酒を濾過するために使用された布類と考えられています。このように、古代から濁り気の少ない清酒は上流階級では飲まれていたようです。

 「止由気宮儀式帳」には、(1)で触れたように火無浄酒(ほなしきよさけ)と呼ばれる神酒を醸造したことが書かれています。火無浄酒は、火で米を蒸したりしないで、米粒を粉砕した米粉または米を水に浸して砕いた粢(しとぎ)を材料に醸造したものと考えられています(桜井,1974)。「浄酒」についても、神聖な酒という意味の「きよさけ」以外に、正税帳の例のように透明な酒を表す「すみさけ」と読まれることがあります。

 私は、火無浄酒は字義通り、火を使わない生の米粉の麹に米粉を使用して発酵させ、上澄みをくみ取ったか布で濾過した「すみさけ」と捉えるのが妥当のような気がします。日本のジャポニカ米はウルチ米でも蒸せば相当粘りがあり、清酒にするため上澄みを得るには時間がかかり、布で力を入れて絞る必要があります。しかし、生の米粉であれば、蒸し米よりは濁りの少ない酒が比較的容易に得られます。

 ところで、なぜ清酒を得る必要があったのでしょうか。火無浄酒と対になる火向神酒は白い粥状の酒または濁り酒と考えられ、もし、火無浄酒と火向神酒が前回に説明したように、陰陽を象徴した黒白に相当する酒とすれば、火無浄酒が透明な黒酒、火向神酒が濁り酒の白酒ということになります。古くは、澄んだ水の色を黒と表現したことから、清酒が黒酒に対応したとも言われています(神崎,2006)。もっとも、今のところ確実な証拠はないので、新たな文献や考古学的な発見を待つ必要があります。

(3)清酒白鷹

 神宮の神饌で使用されている清酒は、兵庫県西宮市の白鷹株式会社の製品が唯一の神宮御料酒として、1升瓶にして年間322本が納められています。三重県は日本でも有数の多雨地域で、豊富な地下水は軟水であり、冬は西側の山地から吹き降ろされる風によって寒冷で、酒造りに適し、2016年現在、三重県には37蔵の酒造会社があります(写真1)。神宮の神饌の材料には江戸時代まで三重県または東海地方のものが提供されていたため、現在でもそれが引き続がれていることが多いのですが、清酒だけなぜ兵庫県の白鷹が使われているのでしょうか。

 神宮の記録では、「1924年4月より兵庫県灘の辰馬悦蔵より、御料酒白鷹が納められ、今日に及んでゐる」と事実だけが簡潔に記載されています(鈴木,1988)。白鷹は1862年に、初代辰馬悦蔵が「白鹿」の醸造元である辰馬本家から分家し、新たに酒造業を興したことに始まります。

 神宮と白鷹の関係は、神宮の禰宜を務めた中田正朔(まさもと)が、神宮皇學館(現在の皇學館大学)の館長を兼務した後、西宮市の廣田神社の宮司として転勤したことから始まります。中田は、江戸時代神宮参拝を手配した御師(おんし)の沢瀉家出身で、同じ御師の中田家へ養子に入りました。余談ながら、沢瀉家からは、京都大学教授で万葉集研究者の沢瀉久孝(1890-1968)や久孝の弟でフランスの哲学者ベルグソンの研究者と知られる大阪大学教授だった沢瀉久敬(1904-95)が出ています。

写真4 外宮手水場前の白鷹の飾り樽(2016年10月12日)

写真4 外宮手水場前の白鷹の飾り樽(2016年10月12日)

 中田は、廣田神社宮司時代、白鷹を嗜み、社長の辰馬悦蔵と懇意になります。退職後伊勢に帰郷し、1903年白鷹を扱う酒屋を開業しました。その後、この店の経営は沢瀉家に引き継がれるといった経緯で、白鷹と伊勢との関係が築かれ、1924年に御料酒を決める機会があったときに全国の蔵元から選ばれたようです(吉井,2004)。神宮御料酒のために工場内の特別な区域と容器で醸造し、運搬にも配慮しながら、酒税相当額しか受け取っていないとのこと(稲垣,1993)なので、伊勢神宮御料酒という宣伝も許されているのでしょう(写真4)。現在では、内宮前のおはらい町に、沢瀉家から引き継がれ、白鷹や三重県の日本酒を販売するとともに立ち飲みもできる酒屋があります。

写真5 今回と前回のコラムに関係する日本酒。左から神宮御神酒、山田錦100%の純米酒、濁り酒、伊勢錦100%の純米吟醸酒、神の穂100%の吟醸酒(2017年3月22日)

写真5 今回と前回のコラムに関係する日本酒。左から神宮御神酒、山田錦100%の純米酒、濁り酒、伊勢錦100%の純米吟醸酒、神の穂100%の吟醸酒(2017年3月22日)

 神宮では、内宮の「参集殿」と呼ばれる参拝客の休憩所の売店で、「御神酒」を販売しています。白い陶器製の酒壺に入っており、そのまま神棚に供えることができます(写真5)。箱書きに神宮御料酒白鷹とありますが、白鷹のホームページには「残念ながら、この御料酒は伊勢神宮の神様だけのもの。一般には販売していません」とあるので、神事に用いられている清酒とは異なるようです。内宮や外宮の神楽殿御札授与所で販売していないのは、伊勢神宮崇敬会という神宮の支援団体が取り扱っているためです。

(4)酒造好適米の山田錦と伊勢錦

 さて、上質な酒を造るためのお米の条件は、1)米粒が大きく、心白の比率が高いこと、2)デンプン質の含有量が多いこと、3)吸水性がよく、糖化されやすいことで、これらの条件を満たすのが、「酒造好適米」です。すべての日本酒が酒造好適米で造られているわけではありませんが、いい酒造りには酒造好適米は欠かせません。

 白鷹の原料米となっている山田錦は兵庫県が1936年に育成し、最高の酒米との評価が高いため、現在でも「五百万石」と作付面積のトップを争う酒造好適米です。ただし、倒伏しやすく、病気にも弱いため、農家にとっては管理が面倒な品種ですが、東北から九州まで幅広く栽培されています。特に、兵庫県の播磨地方のものが品質として最高とされ、白鷹もここのものを用いています(写真5)。大粒で心白発現率は80%弱、心白の形状は線状でやや小さく、高精白が可能で、タンパク質含量も少ないため、酒造りがしやすい米です。この山田錦の母親を山田穂といいます。

 山田穂の由来については、3つの伝承があります。1)現在の兵庫県三木市の田中新三郎が伊勢参りの際、伊勢山田(外宮の周辺)で見つけた穂を持ち帰って育成したため山田穂と名付けられた、2)大阪府茨木市で手に入れた種が神戸市北区山田町において良質の酒米に育ち、1890年の内国勧業博覧会で日本一の折り紙がついたことから、育成地の地名を取って山田穂と呼ばれた、3)兵庫県多可町の農家・山田勢三郎が1877年ごろ、自作田で見つけた大きな穂を近隣地にも奨励し、俵に「山田穂」の焼き印を押して出荷したことから知れ渡った。現在では、残念ながら山田勢三郎説が有力で、伊勢の山田産説は分が悪いようです(副島,2011)。

写真6 多気町朝柄の岡山友清翁紀年碑(2017年3月22日)

写真6 多気町朝柄の岡山友清翁紀年碑(2017年3月22日)

 山田穂は三重県産かどうか分かりませんが、三重県産であることが明らかな酒造好適米は「伊勢錦」です。伊勢錦は、三重県多気郡朝柄村、現在の多気町在住の岡山友清(1798-1878)が幕末の1849年に在来品種「大和」から選抜・改良した品種です(写真6)。

 岡田は松阪の宿屋を通じて伊勢参りの旅人に無料配布しようとしましたが、岡田も宿屋の主人も今で言う新興宗教の信徒だったため、幕府の詮議を受けたり、旅人にうさん臭がられるなどして、なかなか広がりませんでした。しかし、ものは試しと持ち帰った農民が植えてみると収量が多いため、関西地方を中心に明治時代末には15,000haにまで広がりました。米粒は大粒で心白が多く、酒米にも適していました。ただし、長稈かつ穂重型で倒伏しやすく、いもち病にも弱いため、1960年代には栽培されなくなりました(酒井,1999)。しかし、三重県農業技術センターに保存されていた原種を譲り受けた酒造会社が1994年に復活させ、さらに耐倒伏性の短稈種を選抜し(松葉ら,2008)、それを原料とした酒を醸造しています(写真5)。

(5)ガイド

平城宮酒造司跡:奈良県奈良市法華寺町
平安京造酒司倉庫跡:京都市中京区丸太町通七本松西入北側(京都アスニー内)
岡山友清翁紀年碑:三重県多気郡多気町朝柄3127 多気町勢和振興事務所西
伊勢自動車道勢和多気IC下車西へ6.3km15分

参考資料:
稲垣眞美(1993)神宮御料酒の郷,芸術新潮,44-11,p40-43
石垣仁久(1991)白黒醴清-神宮の酒-,瑞垣,159,60-68
神崎宣武(2006)酒の日本文化,p1-251,角川学芸出版
橿原考古学研究所付属博物館(2013)美酒発掘,p1-103,橿原考古学研究所付属博物館
加藤百一(1987)日本の酒5000年,p1-261,技報堂出版
松葉捷也ら(2008)在来の水稲品種伊勢錦とその短稈系統の生育特性と酒米特性,日作紀,77,32-33
酒井 一(1999)不二道と伊勢錦の岡山友清,勢和村村史通史編,p258-276,勢和村
桜井勝之進(1974)伊勢神宮,p1-238,學生社
副島顕子(2011)酒米ハンドブック,p1-96,文一総合出版
鈴木庄一(1988)神宮祭典御料の整備,神宮司庁編,神宮・明治百年史,p1-315,神宮文庫
吉田集而(1993)東方アジアの酒の起源,p1-349,教文堂
吉井貞俊(2004)回顧録幾山河,p1-236,戎光祥出版

執筆者

谷山 一郎

農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住

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食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る