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執筆者

谷山 一郎

農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住

環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食

24 米山新田と羯鼓踊り・・・神宮領は天国、藩領は地獄

谷山 一郎

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写真1 米山新田墾田碑(2016年6月2日)と円座羯鼓踊り(2014年8月15日)

写真1 米山新田墾田碑(2016年6月2日)と円座羯鼓踊り(2014年8月15日)

(1) 太閤検地免除の神宮領

 豊臣秀吉は、16世紀末、太閤検地と呼ばれる、農民への年貢の賦課、大名や家臣への知行給付や家格などの基礎データとなる田畑の測量および収穫量調査を日本全土で行ないました。ところが、現在の伊勢市の一部は神宮領として検地を免除し、江戸時代以降も幕府や藩などへの租税の納入は不要でした。

 また、幕府や藩などの代わりに神宮領の統治組織として、外宮領に山田三方会合(ようださんぽうえごう;三方は三つの地域という意味)、内宮領に宇治年寄会合(うじとしよりえごう)と呼ばれる自治体を置き、それぞれ年寄衆と呼ばれる有力町民が政務をとりました。神宮経営のための支配地は、市域外で検地が行われた神宮領で約4,000石程度ありました(伊勢市,2013)。

写真2 山田奉行所記念館(2016年7月29日)

写真2 山田奉行所記念館(2016年7月29日)

 ただ、江戸幕府は神宮領に山田奉行を置き、神宮の警備、重罪人の裁判、遷宮の監督および伊勢市周辺の幕府領の監督業務などを行いました。ところで、旗本大岡越前守忠相(ただすけ)は1712~16年に、山田奉行に赴任し、その前後の業績から有能な官僚として徳川吉宗の目にとまり、享保の改革において江戸町奉行として都市政策に携わることになりました。現在、大湊港に近い宮川の堤防脇の山田奉行所があったところに、山田奉行所記念館として建物が復元され、大岡忠相関係などの資料が展示されています(写真2)。

 神宮領の農村では、他の幕府領や藩で行われていた検地により確定した年貢の納入は不要でしたが、自治体を運営するための貫(つなぎ)という税金がかかりました。その負担が農民にとってどの程度であったかは分かりませんでしたが、総額は宇治年寄会合で1791年に約700両との記録があります(伊勢市,2013)。江戸時代1両は米1石(150kg)に相当する金額といわれ、6万円程度とされています(金森,2004)から、700両は4,200万円ほどになります。1643年の宇治会合の戸数は1,892であり、一戸当たり年2万円程度に過ぎません。貫の使途は、会合と山田奉行所との儀礼費、下役らの賃金、紙や墨などの消耗品といった組織運営のための費用でそれほど大きな経費ではなかったようです。

 神宮領の住民には、遷宮の際の材木などの搬送や寄付などが課せられましたが、遷宮費用は基本的には幕府が支出し、それほどの負担ではなかったようです。御木曳きや白石持ちと呼ばれる遷宮資材運搬の行事の際には派手な服装を禁止する通達が奉行所から出たほどで、住民は嬉々として参加しました。

 また、神宮領内での農村では参宮客の食事用の野菜栽培が盛んで、水田面積は少なく、参宮街道沿いの農村では、わらじや飲食物の販売、荷運びなどの賃稼ぎを優先して米作を放棄し、得られた金銭で米を購入して米貫として現物納入することすら行われました(三重県、2013)。

 一方、幕府領での年貢率は四公六民ともいわれ、江戸時代を通じて農家の取り分は収穫量の61~66%でした。しかし、私領と呼ばれる藩では、場所や時期でさまざまでしたが、武士を農民に養わせた上、参勤交代の費用や江戸での交際費、あるいは幕府が命ずる城や堤防などの公共事業の費用まで負担しなければならないため、幕府領よりもさらに農家の取り分は低いのが普通でした(西山,1989)。

 特に、神宮領に隣接した紀州藩は56万石という大きな石高でしたが、徳川御三家の一つで何かと出費がかさみ、家臣の人数も多かったので、様々な税負担を総計すると紀州の税率は八公二民となり、農家の取り分はたったの20%という惨憺たるものでした(司馬,1990)。このため、紀州藩の農民はアワやヒエなどの雑穀しか食べることができなかったとのことです(所,2001)。

(2)米山新田の開発

 現在は伊勢市、江戸時代までは紀州藩領であった円座村の農地は宮川沿いにはありますが、河岸段丘上にあるため水利が悪く、1650年頃の村高約180石のうち米は48石に過ぎず、主食は畑作のムギやアワでした。このため、円座村の大庄屋であった米山宗隆は、稲作拡大を目指し、1696年に隣の上野村から5.5kmの水路を建設して、7haの水田を開くことに成功しました(濱口,2014)。

図1 米山新田と用水路

図1 米山新田と用水路

 その後、水路は各所で崩壊したり埋もれ、受益水田面積は3ha程度に減少していました。宗隆から5代後の米山宗持は新たな用水路と水田の開発を決意しました。用水路の取水地点を横輪川に求め、そこが幕府領であるため、田畑を売って費用を捻出し江戸まで出向いて井堰の設置を幕府に申請し、老中松平定信の許可を得ました。

 1829年に工事に着手し、山を通る水路は150mのトンネルとし、延長は7.6kmに及びます。ところが、完成目前の1831年に豪雨に襲われ、トンネルは崩落し、水路は各所で埋もれるなどして壊滅状態になりました。そこで宗持は全財産を売り払い、さらに新田を担保に借金をして、工事を再開、三河産の延石(断面が9~12cm×9~15cmの花崗岩の細長い石)を使用して水路の強化を図り、水路から溢れた水を川へ逃がす「ゆせき」を数カ所設置し、40haの水田の開発を成し遂げました(図1)。

写真3 現在の米山新田用水路のトンネル部。右の青い簡易水門はかつての「ゆせき」(2016年6月2日)

写真3 現在の米山新田用水路のトンネル部。右の青い簡易水門はかつての「ゆせき」(2016年6月2日)

 しかし、1833~39年の天保の飢饉により、米山新田でも不作が続き、1,000両の借金の返済が滞ることになり、1842年、宗持は責任を取って、切腹するという事態になりました。その後、村民は結束して借金の返済を継続し、明治に変わった1876年に完済することができました(伊勢市,2007)。用水路の構造は当時とは異なりますが、現在でも同じ経路で用水路として利用されています(写真3)。

 村民は宗隆と宗持の功績を称えるため1885年に「圓座邨(むら)墾田碑」と名付けた石碑を建て、1973年に伊勢市史跡に指定されました(写真1)。今でも春の彼岸には工事で苦労した人々を供養する「米山とっこう(特講)」を欠かさず、盆には「羯鼓踊り」で米山家の先祖を慰霊しています。

(3)羯鼓踊り

写真4 神宮神楽祭における和楽器の演奏。右端が羯鼓(2016年4月30日)

写真4 神宮神楽祭における和楽器の演奏。右端が羯鼓(2016年4月30日)

 羯鼓踊り(県北ではかっこおどり、県南ではかんこおどり)は、雅楽の楽器である羯鼓(かっこ)という太鼓(写真4)を体の前に着けて叩きながら集団で踊るものです。室町から江戸時代にかけて流行した、派手な衣装に身を包んで笛や太鼓の音に囃されて集団で踊りを演じる風流(ふりゅう)踊りの一つと考えられています(三重県,2012)。

 羯鼓踊りは、盆の時期に行われる大念仏や盆踊りと同じように、精霊送りとして、初盆を迎える霊だけでなく、菅原道真のように非業の最期を迎えた死者の霊魂を畏怖し、鎮魂のための行事として続けられてきました。三重県は羯鼓踊りが盛んで、現在でも国・県・市に登録されているものが約50件、明治中期には270件の羯鼓踊りがあったといわれています。

 三重県に多く伝わるのは、この羯鼓が伊勢神宮の神楽で演奏されていたからとの説もあります。

 羯鼓踊りにはさまざまな衣装がありますが、宮川流域では、馬の尾で作られたシャグマ(赤熊)と呼ばれる白毛の被り物、縞の上着、腰に腰蓑を付け、首から羯鼓をぶら下げて打ちながら踊ります(写真1)。

写真5 花笠を被って踊る小学生(2014年8月15日)

写真5 花笠を被って踊る小学生(2014年8月15日)

 円座町では、8月15日18時30分から正覚寺(曹洞宗)境内で始める前に、羯鼓踊り保存会の幹部が米山家に開始のあいさつに行きます。円座町に住む小学4年生以上の男子15~30人が参加し、中学生以上はシャグマを、小学生は造花を饅頭型の笠に付けた花笠を被って踊ります(写真5)。

 浴衣を着た太鼓、鉦や法螺貝といった楽器の演奏者と音頭と呼ばれる歌い手が加わります。前半は念仏踊りで、初盆を迎えた霊や米山家の先祖の霊などを供養します。後半は豊年踊りで、農作物の豊作を祈願して、23時頃終了します(伊勢市民俗調査会,1988)。

 古来、太鼓を打ち鳴らすことは悪霊を払い神霊を呼び、法螺貝を吹くことは雨を呼ぶものとされてきました。雨乞いの神事が時代とともに、神を敬い、先祖に感謝し、五穀豊穣を祈願する踊りに変化したと考えられています(三重県ら,2003)。農民にとって最も大切な水資源の確保に尽力しながら途中で力尽きた米山宗持を慰める踊りが円座の人々によって続けられています。

(5)ガイド

山田奉行所記念館:伊勢市御園町上條1602

バス:JR近鉄伊勢市駅から三重交通バス大湊行き桧尻下車、北西へ約1.8km徒歩25分
自家用車:伊勢自動車道伊勢西インターから北へ約7km、約10分

米山新田墾田碑:伊勢市円座町

バス:JR近鉄伊勢市駅から三重交通バス道方行き円座下車、南南西450m徒歩6分
自家用車:伊勢自動車道玉城インターから南東約5km、約8分

正覚寺:伊勢市円座町1502

バス:JR・近鉄伊勢市駅から三重交通バス道方行き栄団地下車、西400m徒歩5分
自家用車:伊勢自動車道玉城ICから南東約5km、約8分

参考資料:
濱口主一(2014)伊勢山田散策ふるさと発見,p1-254,伊勢郷土会
伊勢市(2007)伊勢市史,7文化財編,p1-645,伊勢市
伊勢市(2013)伊勢市史,3近世編、p1-911,伊勢市
伊勢市民俗調査会(1988)伊勢市の民俗,p1-831,伊勢文化会議所
金森敦子(2004)伊勢詣と江戸の旅,文春新書375,p1-237,文藝春秋
三重県(2012)三重県史,別編民俗,p1-955,三重県
三重県(2013)三重県史,資料編近世2,p1-1143,ぎょうせい
三重県・三重県農業会議(2003)みえの羯鼓踊,p1-94,三重県
長内弘昭(2001)田丸領の諸年貢,玉城史ダイジェスト版編集委員会編,ふるさと玉城の歴史,p74-75,玉城町
司馬遼太郎(1993)この国のかたち2,文春文庫,p1-280,文藝春秋
所 理喜夫(2001)村の生活,西山松之助編,新版日本生活文化史6,日本的生活の完成,p125-144,河出書房新社

執筆者

谷山 一郎

農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住

環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食

食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る