環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食
食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る
食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る
農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住
(1) 神宮神田(しんでん)の歴史
神宮神田(以下神田)とは、神宮の神饌の飯、餅および酒の原料となる御料米を生産する水田で、伊勢市楠部町にあります(写真1)。また、志摩市磯部町の内宮別宮伊雑宮(いざわのみや)に隣接している水田は御料田と呼ばれています(写真2)。昔は、神饌の原料供給田を御刀代(みとしろ)、その御刀代と神宮の経済を支える米を生産する水田を含めて神田または神戸(かんべ)と称していたようです。ちなみに、東京都千代田区の神田(かんだ)はかつて神宮の神田があったところ、兵庫県神戸(こうべ)市は生田神社の神領があった場所と言われています。
神田は、伝承では倭姫命(やまとひめのみこと)が内宮を遷座したと同時に創設したとされ、2000年の歴史を有することになります。また、志摩市の御料田は、その翌年、倭姫命が、稲穂をくわえた真名鶴を発見して開いたといわれています。
その後、平安時代中期に編纂された法令集「延喜式」では、神田はこの楠部町だけでなく、三重県や奈良県に散在し、総面積は約36haにも及びました。ただし、神饌に供される御料田は約5haで、残りは神宮の経営に充てられていました。その後、御厨(みくりや)や御薗(みその)などと呼ばれる神宮の荘園が全国に拡大し、集落の核として、神明社などと呼ばれる神宮系の神社が建立されました。室町・戦国時代の混乱期には神宮領の多くが失われますが、織豊時代には神領地を寄進され、江戸時代にはその所領を維持してきました。
しかし、1871年に明治政府によって寺社領が没収される上地令により神田は一時廃止され、神宮で使用する米は業者から納入されていましたが、1889年に神田の一部は再興されました。当時、神宮の水田は伊勢市内外に7カ所ありましたが、その後変遷を経て、現在では楠部町の神田と志摩市磯部町の御料田だけとなっています。
(2)神田の概要
現在の神田は、内宮の北東2.6km、五十鈴川近くの山麓の低地にあります(図1)。水田は東西約100m南北約30mの面積約3ha、その他に4月の種まきの神事である下種(げしゅ)祭の際に行われる山口祭と木本祭の祭場となる水田南側の忌鍬(ゆぐわ)山と呼ばれる山域などが約5.8haあります。
神田には、お祓いを行う修祓所や神事が催される白石を敷き詰めた祭場などがあります。そのほか、堆肥舎、乾燥舎、事務所などの農作業施設があり、かんがい水は、五十鈴川水系からポンプで埋設管を通じて水田へ配水しています。肥料として、植物質の堆肥と必要に応じて化成肥料を用い、不浄との理由から畜糞堆肥は使用していないとのことです(日本食品薬化,2013)。農薬も十数年前には使用していませんでした(橋野,2000)が、今では最低限は使っているそうです。
神田の土壌の性質について書かれた資料は見当たりませんでしたが、土壌図では粘土質で排水不良の細粒強グライ土となっています(農業環境技術研究所,2015)。実際、神田北側の一般農家の水田では、農業機械が沈下して農作業に支障をきたすことがあるようです。しかし、神田では、1932年に山地を削って水田を拡幅したとき、切り取った土で敷地全体を45~90cmかさ上げしたため、田面は周囲の水田よりも60cmほど高くなっています(神宮司廳)。また、山土を数十cmも客土しているため、神田の土壌特性は元の細粒強グライ土とは異なっているかもしれません。
2015年9月9日に台風18号が中部地方を通過したとき、午前7時から8時までの時間雨量は、伊勢市のアメダス観測地点がある小俣町では34mmでしたが、レーダーアメダスなどによる解析雨量は神田のある伊勢市東部では約100mmと推定されました。この時、神田東側を流れて五十鈴川に注ぐ小さな河川が氾濫し、付近の稲刈りの終わっていない水田では、稲穂まで水没したところがありましたが、神田では穂までの冠水は免れたようです。客土によるかさ上げが水没しなかった原因の一つと考えられます。
(3)栽培品種
神田で栽培されている水稲品種について、資料から調べた1990年代から、ほぼ10年ごとの推移を表1に示しました。表を見て気がつくのは、多くの品種が栽培されていることと、神饌の材料ではない保存品種と呼ばれる瑞垣原種以下の品種を除き、キヌヒカリとチヨニシキだけが継続して栽培され、そのほかの品種が大きく入れ替わっていることです。なお、表1の空欄は資料に記載されていないことを示し、栽培されていないことを意味していません。2015年産でも赤米などの栽培が観察されました。
多くの品種を栽培するのは、それぞれの水稲の昨期をずらせることによって、台風などの風水害や病虫害の影響を最小限にするためとのことです。今年の台風襲来によってそのことを再確認しました。現代の農家では異なる品種を田ごとに栽培することはほとんどなくなりました。しかし、平安時代初期の郡衙関連遺跡から発掘された「種子札(たねふだ)」と呼ばれる品種名を書いた木簡によって、当時多数の稲品種が存在し、早、中、晩生などの生育特性のちがいなどが名前や作付けや収穫時期によって読み取れます(木村,2010)。このことから、現在の神宮と同じように、当時、時期をずらせて生育特性の異なる品種を栽培することで、干ばつ、洪水、冷害やイナゴなどの虫害などによる減収リスクの分散が図られていることが分かりました。さらに、律令制度のもとで水稲の栽培スケジュールが役人によって管理されていたことも推測されています。
また、品種が頻繁に入れ替わるのは、古代の米の栽培をそのまま継承するのではなく、地球温暖化などその時代の環境に適したおいしいお米を神様にお供えするという考え方によるといいます(日本食品薬化,2013)。
ところで保存品種の瑞垣は、1929年の遷宮の翌年、内宮東御敷地の旧正殿軒下に一本の稲が生じ、結実して収穫に至り、瑞垣内に自生した稲であることから「瑞垣」と命名された水稲です。現在の三重県農業研究所と三重大学に増殖を依頼し、神田で栽培を続けています(矢野,1992)。
(4)苗草不敷、田蛭不住
平安時代初期804年に神宮が太政官に提出した「皇太神宮儀式帳(国立国会図書館,2013)」は内宮に関する儀式・行事を記した文書で、神田に関する記述は「記紀・万葉」の記載内容とともに奈良・平安時代の農業を知るための貴重な情報となっています。この中で神田について「苗草不敷亦田蛭不住(この田には苗草敷かず蛭(ヒル)住まず)」とあり、「つまり害虫のいない肥料もいらない自然農法ができる立派な田という意である(矢野,1992)」という解釈もありますが、農業技術的な視点から少し考察してみましょう。
苗草は、肥料として水田にすき込む前作の稲わらや土壌生産力を回復するための休耕田における雑草など植物遺体とされています(松尾,1994)。もし、平安時代の神田の土壌が現在の神田周囲の水田と同じように細粒強グライ土の排水不良田であれば、苗草のように未分解の有機物を大量にすき込めば、強還元を起こし、稲の根腐れを発生させ、米の減収の可能性があります。そのため、「苗草敷かず」とは、湿田に未分解の植物遺体を苗床または田植え前の本田にすき込むことを戒めた表現とも解釈できそうです。すでに当時、根腐れ防止のために、かんがい水の供給を生育途中で止める中干し技術があったと考えられています(松尾,1994)。したがって、肥料としての苗草の代わりに、五十鈴川からのかんがい水の肥料成分の天然供給量でまかなったか、林地の十分に分解した腐葉土や草木灰を入れたか、または糞尿を混ぜない稲わらや雑草の堆肥を施したなどいろいろと考えられます。
また、田蛭とは水田に生息しているヒルで、皇太神宮儀式帳の中で「田蛭は穢らわしき故に我が田には住ませず」と記載していることから、人間にとって不快な吸血性のチスイビルと考えられます。チスイビルは体長3~4cm、やや平たい円柱状で両端が細くなっています。人間やほ乳類にとりついて、自分の体重の5倍もの血液を吸うことができ、1年に1度十分な血液を吸えば、それで成長することができます(キャンベル,1987)。神田近くの私の農園付近の水田にチスイビルがいないか探してみましたが、発見できませんでした。最近、農薬使用や乾田化によって生息数は減少しているようで、京都府では準絶滅危惧種に指定されています(京都府,2015)。当時は農薬もなく、神田は湿田と推定されるので、ヒルの生息数を減らすためには、すでに牛馬を用いた鋤耕が導入されていた(松尾,1994)ことから、牛馬を田に入れないこと、またはイノシシなどの野生動物が田に入らないように駆除して、動物の糞尿の田への混入を防ぐことを象徴した言い回しと捉えることができます。または、根腐れ防止のための乾田化を目指した言葉かもしれません。もちろん、ヒルは人間の素足や素手にも取り付きますから、本当に田蛭が住んでいなかったかどうかはわかりません。
(5)ガイド
伊勢市四郷コミュ二ティセンター:神田西隣の市役所支所の同所の展示室では神田に関する展示が行われることがあります。連絡先:0596-22-2576
列車:近鉄五十鈴川駅下車、東1.0km、徒歩15分
バス:近鉄五十鈴川駅から「おかげバス」四郷小学校下車すぐ
自家用車:伊勢鳥羽自動車道楠部インターチェンジから南へ800m
参考資料:
橋野加津夫(2000)神宮の神田・御園,瑞垣,186,72-79
神宮司廳(?)神宮神田概要・神宮神田祭儀制定概要,p1-24
国立国会図書館(2013)皇太神宮儀式帳
キャンベル,A(1987)ヒル類,動物大百科14,p70-71,平凡社
京都府(2015)京都府レッドデータブック2015
松尾 光(1994)文献史料にみる古代の稲作,武光 誠ら編,古代日本の稲作,p135-176,雄山閣
日本食品薬化(2013)食育大事典
農業環境技術研究所(2015)土壌情報閲覧システム
津地方気象台(2015)平成27年台風第18号に関する三重県気象速報
矢野憲一(1992)伊勢神宮の衣食住,p1-337,東京書籍
農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住
食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る