科学的根拠に基づく食情報を提供する消費者団体

執筆者

白井 洋一

1955年生まれ。信州大学農学部修士課程修了後、害虫防除や遺伝子組換え作物の環境影響評価に従事。2011年退職し現在フリー

専門家コラム

日本発のゲノム編集食品開発 アベスガ政権は大型予算で支援

白井 洋一

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ゲノム編集とはDNA切断酵素を使って、ゲノム(全遺伝子情報)のねらった位置を正確に取り除いたり導入できる「切り貼り」技術だ。10月7日、この技術の中でももっとも画期的なクリスパー・キャスを開発した二人の女性研究者がノーベル化学賞を受賞した。医学や農業への利用は世界中で進んでおり、今回の受賞は良いニュースだろう。

しかし、この技術を使ったゲノム編集応用食品は、期待もあるが、消費者団体には不安や警戒感も根強い。日本では環境省や厚生労働省が2018~19年に、「小規模な変異誘導で遺伝子の機能をなくしただけのものは、外来遺伝子が入っていないことが確認されれば、規制対象外とする」ことに決めた。遺伝子組換え生物のように法律による規制はしないということだ。しかし、今年になっても、ゲノム編集作物の後代掛け合わせ品種の扱いをどうするかという厚労省の専門調査会(2020年10月9日)で、消費者団体は「たとえ外来遺伝子が入っておらず区別できなくとも、消費者の知る権利を守ってほしい」とか「新しい技術だからこそ、消費者にわかるような情報発信をしてほしい」と繰り返し要求している。厚労省や表示を担当する消費者庁も国民の声を無視するわけにもいかないようだ。

遺伝子組換え食品はネガティブなイメージが定着したが、同じように、ゲノム編集食品に不安がもたれるのは、いくつか理由がある。アメリカは規制をなくして開発を推進するが、ヨーロッパは組換え食品と同じように規制するべきとする司法判断(2018年7月)がでたことが大きい。これで米欧対立のわかりやすい構図ができた。しかし、これだけではない。わが国では、規制対象外とする決め方、根拠がわかりにくく拙速にとられた。届出も表示も義務ではなく任意だが、農林水産物では実際には法的管理に近いものであることも伝わっていない。さらに今のところ、日本発の消費者に利益がある、魅力のある商品が出ていない。政権も変わったところで、この辺りを振り返ってみる。

●規制対象外の決め方がやや拙速 

ゲノム編集生物の扱いを整理し、組換え生物のようにカルタヘナ法の規制対象とするか否かの検討作業は2018年5月28日の環境省自然環境部会で始まった。

この後、専門委員会、検討会を開いて8月末には大枠を決めた。環境省が作業を始めたきっかけは内閣府のバイオ戦略ワーキンググループが「小規模変異誘導のみの作物や魚は規制対象外とする」ことを求める要求を出したのがきっかけだ。安倍総理、菅官房長官主導の内閣府は、「作物や魚」など商品化、産業利用できる生物しか考えていなかったようだ。しかし、すべての生物種を担当する環境省は動物、昆虫、微生物などを含めて、規制対象とするもの、対象外にするものを一律に区分けした。

検討会でも、微生物の研究者から「作物や魚はそれでよいだろうけど、微生物はわずかな変異でも強毒性になる場合もある」などの意見が出された。後で専門家に聞いても、「農水省などが開発している作物や魚に限定したほうが、国民向けにはよかったかも」と言っていた。私も同意見だ。内閣府は基礎研究や生物兵器の可能性など頭になかったのかもしれない。これが研究者の間でも環境省の決め方はやや拙速と思われる理由のひとつになっている。

●要請、通知だけで研究所、大学、大手企業は従う

外来遺伝子が残っているゲノム編集食品は組換え食品と同じように食品衛生法で規制し、表示も義務付けられる。外来遺伝子が残らず規制対象外となったものでも、管轄する官庁に届け出ることになっているし、対象外となるかどうかを事前に相談するように求めている。食品の相談窓口は厚労省だ。2019年9月、厚生労働省の課長が、「届出は強制ではなく任意だが、もし後で届けなかったことがわかったら、業者名を公表する」とも言っていた。

しかし、一般人には「任意の届出だと従わない業者もいるのではないか」、「区別もできないのだから黙って勝手にやるのではないか」と思われても当然だろう。メディアが任意の届出の実効性を疑問視するのも同じような理由からだ。

実際は、管轄官庁が、「ゲノム編集生物を作って商品化を計画しているなら、事前に厚労省に相談し、届けていただきたい」と要請文を出すと大方は従うのだ。法律ではなく、通知文書(昔の通達)は、省庁の局長名で簡単に出せる。大学関係なら文部科学省から、外資系のバイテク企業や国内の種苗育種業者には農水省や厚労省から通知を出せば、加盟各社、研究機関にほぼ100%伝わる。とくに大学や国立法人の研究機関は従わないと、他の予算配分にも影響しかねないので通知の効果は大きい。小規模ベンチャー企業が勝手にやっても、法律違反で摘発される可能性がある。外来遺伝子が残っていないことを確認するまでは、組換え生物扱いなので、法律に基づく温室や隔離ほ場で栽培しなければならない。いい加減な施設で規制対象外のゲノム編集食品を作っても、その前段で違反していればアウトで、違反業者として公表されるし、罰則もある。

しかし、局長通知の持つ重さや効果は、一般人にはわからない。何人かメディアの記者と話したが、若手の記者は業界の内部事情に詳しくなく、局長通知の効力には考えが及ばないようだ。

●SIP 豊富な研究予算 検証もせず2期目に

日本のゲノム編集食品の研究開発の多くは、戦略的イノベーション創造プロジェクト(SIP、エスアイピー)という内閣府主導の大型研究費によって賄われている。ゲノム編集関係の研究は組換え体と同様に、多額の研究費が必要なので、政府が豊富な研究費を付けたのは良いことだ。バイテク研究者は「旧民主党政権では、組換え体関係の予算を減らされ、研究が停滞した」と不平を言っていたので、大型予算を投入してくれた安倍政権は大歓迎だったろう。しかし、私はSIPの投資効果、これからの成果に不安を持っている。

この十年を振り返ってみる。

【2009年8月】民主党政権誕生

【2012年12月】自民党政権復活

【2014年5月】内閣府の総合科学技術会議を総合科学技術・イノベーション会議に改称

【2014~2018年】SIP 5年間の大型プロジェクト「次世代農林水産業創造技術」としてゲノム編集食品の商業利用を目指す研究が本格化

【2018~2022年】SIP2期目 「スマートバイオ産業・農業基盤技術」としてゲノム編集食品の研究開発継続

本来は1期目のSIPの結果を検証したうえで、次に進む予定だったが、2017年度の補正予算で前倒しで2期目が始まった。1期目の5年間で商品化できるものを作るという目標は達成できなかったが、できない原因の検証も不十分なまま、2期目になだれ込んだというのが私の印象だ。

豊富な予算に支えられ、SIPでは論文はかなり出ている。しかし、ほとんどゲノム編集技術に関するもので、商業化できる産物は2期目の中間年(2020年)までに1つも出ていない。栄養改変トマトと肉量増加マダイが有力候補らしいが、過去に登場した他の候補の見通しは示されていない。

もちろん、基礎研究は大事だ。しっかりした基盤技術が確立していなければ、その先の実用化、商品化はできない。しかし、ゲノム編集食品は応用研究であり、純粋な基礎研究ではない。商業製品をいくつか複数、市場に出さなければ、消費者理解とか社会実装などSIP予算でやっている市民、消費者向けの啓もう活動は絵に描いた餅になってしまう。

●結果は問わない やってる感が大事はこれからも続くのか

安倍政権の政策は、バイオなど科学技術に限らず、「結果は問わない、やってる感を見せるのが大事」と批判された面もある。SIPで研究予算は確保されており、たとえ商品が1つも世の中に出なくても、研究者にとっては安泰なのかもしれない。しかし、今のような科学技術政策と予算配分、これに迎合する研究者で良いのかと思ってしまう。

ノーベル化学賞受賞は良いニュースだが、安倍の後を継いだ菅総理が、日本学術会議の推薦委員105人のうち6人を任命しなかったのは、なんともやるせない不快な出来事だった。10月2日、学術会議は任命しなかった理由を説明し、6人の任命を求める、抗議文を菅総理に突き付けたが、当然だ

任命されなかったのはいずれも政治制度、法律など社会科学の研究者で、安全保障政策などで安倍政権を批判してきた人だ。気に入らない者は徹底的につぶす、排除する安倍や菅政権ならやりそうなことだが、もう少し大人気ある態度がとれないものかと情けなくなってしまう。

今回任命されなかった社会科学系は、理系より研究予算は少なくてもやっていける分野だ。政府の露骨な任命拒否の影響はバイオ関連を含む理工系、医学系の研究者により及ぶのではないかと危惧している。政府、内閣府の意に沿わないことを少しでも言ったりすれば、大型研究プロジェクトの予算が付かないのではないかと自主規制、委縮してしまうのではないか。理系では人事介入より、兵糧攻めのほうが影響力は大きい。

あまり一般には報道されないが、SIPだけでなく、ImPACT(インパクト、革新的研究開発プログラム)、ムーンショットなど、カタカナ文字の響きの良さそうな大型研究プロジェクトが続々立ち上がっている。バイオ研究はとにかく金がかかる。博士研究員(ポスドク)の生活費の面倒も見なければならないし、研究リーダーの身分自体も安泰ではない。政府主導の政策に合わせた研究テーマで大型予算を獲得せざるを得ない。同時に、社会的にも注目されるので、消費者やメディアにも気を使わなければならない。ゲノム編集技術を応用して、食品開発をめざす研究者もなかなか大変だ。

執筆者

白井 洋一

1955年生まれ。信州大学農学部修士課程修了後、害虫防除や遺伝子組換え作物の環境影響評価に従事。2011年退職し現在フリー