環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食
食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る
食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る
農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住
(1)平治煎餅・平治最中
三重県の県庁所在地津市のお菓子に、平治煎餅と平治最中があります。笠をかたどった卵煎餅と最中です(写真2)。外装材には平治という名前の入った笠が描かれています。神宮周辺の物産店で販売しているところがあります。
その名前と形のいわれは以下のような伝説にちなんでいます。その伝説もさまざまありますが(梅原ら,1986)、概要は以下のようなものです。
昔、平治という名前の漁師が、膈という病気(現在の胃ガンまたは食道ガン)に苦しんでいた母親にヤガラという魚が効果があると聞き、伊勢神宮御用の禁漁区である阿漕浦(あこぎがうら)で夜陰に乗じてヤガラを密漁し、母親に食べさせていました。しかし、ある日、平治と名前の入った笠を浜に置きわすれたために捕えられ、法により簀巻にされて阿漕浦の沖に沈められてしまいました。
その後、しばらくして母親も亡くなりました。この平治の恨みが沖で網を引く音となって聞こえるので、人々はその霊を慰め平治の孝心を賛えて阿漕塚という塚を江戸時代中期の天明年間に建てたとのことです(写真3)。
その罪の証拠となった笠を孝子の象徴として、1913年から製造販売されたのが平治煎餅です(大川,1986)。
(2) 阿漕浦の伝説
ところで、関西地方では「阿漕な」という表現があり、しつこい、ずうずうしい、あくどい、特に、無慈悲に金品をむさぼることを表すのに用いられます。例えば、「阿漕なやっちゃ」、「阿漕な商売」、「阿漕なまねをする」といった使われ方をします。
これは、阿漕浦の平治という孝行者または悲劇の主人公の伝説とはなじまない表現です。そこで調べていくと、「阿漕な」の語源は、室町時代の世阿弥作と言われている謡曲の「阿漕」に由来していることが分かりました。謡曲「阿漕」のあらすじは次のとおりです。
九州日向の男が、伊勢神宮参詣の途中、阿漕浦で漁翁に出会います。二人はこの浦を詠んだ古歌に興じ、土地の謂れを尋ねた男に、漁翁は、殺生禁断の浦で密漁していた阿漕という漁師が捕えられ、罰として沖に沈められ死後も苦しみ減罪を乞い願っていると語り、自分が阿漕の幽霊であると知らせて海上に消えます。そこへ現れた浦人が回向を勧め、 男が読経を始めると、阿漕の亡霊が現れ、密漁の有様と地獄の苦しみを見せます。そして救済を求めつつ亡霊は波間へと消えていきます。
このように、阿漕という名の漁師が密漁をしたという、平治のような孝行のためという動機は書かれていない物語から、私利私欲のために規則を犯したあくどい人間というイメージができ、それが「阿漕な」の語源となったようです。
ところが、この謡曲のもとになった話というのが、「この浦を詠んだ古歌」であり、平安時代中期に紀貫之が選者とも言われている「古今和歌六帖」に記載されている「逢ふことを阿漕の島にひく網の 度重ならば人も知りなむ」(異本によって表現は違います)という、もともとは密漁ならぬ隠れた恋を歌ったものです。この場合、阿漕の島とは、津の周辺とは限らず、日本全国にあったようですが、津周辺を安濃(あのう)郡と言ったことから、濃を訓読みして、伊勢の阿漕とこじつけたようです。
前置きが長くなりましたが、もともとの和歌から、謡曲「阿漕」、そして平治伝説への変遷については、多くの考証がされています(大川,1986;梅原ら,1986;青山ら,1988;小坂,2012)。特に、小坂は、津市の中学校の教材として使うために詳細に検証しており、教育委員会の苦労がしのばれます。この場合は食がテーマなので、阿漕浦が神宮の禁漁区であったかどうかとヤガラの薬効について考証をまとめて紹介します。
(3) 神宮の禁漁区
全国の各所にあった阿漕浦ですが、物語にある伊勢の阿漕浦はどこだったのでしょうか。南北朝時代1342年に書かれ神宮参拝の旅行記である「伊勢太神宮参詣記」には、安濃津のすぐ南であることが書かれています。安濃津の場所は諸説あるものの、ほぼ現在の津市中心部を流れる岩田川河口周辺に位置していたようです。しかし、室町時代まで、博多、堺(または鹿児島県の坊津)とともに中国の書籍に日本三津の一つと称され、海外貿易港として栄えた安濃津は、1498年の明応大地震による陥没または大津波によって、壊滅的な被害を受け、廃れてしまいます。現在の阿漕浦はJR紀勢本線阿漕駅東の海岸(写真1)で、阿漕塚は岩田川南岸から約450m南、海岸線から500mほど西の内陸にあります。
その阿漕浦が神宮の神饌の食材を提供する場所であったのかどうか。平安時代中期(927年)に編纂された「延喜式」には、安濃郡に神宮の神田と神戸が置かれたことが記されています。973年には安濃郡は伊勢神宮の神郡(かんごおり)となり、神宮が行政、警察、刑事裁判権を行使していました。鎌倉時代に編纂された「建久三年(1192年)皇太神宮年中行事」には、神宮の重要な神事に際して、魚貝類が納められた場所のリストの先頭に安濃津があげられています。これらの資料には阿漕浦の名は見られませんが、安濃津に隣接していた阿漕浦で捕獲されていた魚貝が、安濃津産として納められていた可能性はあります。
次いで、阿漕浦が禁漁区であったかどうか、または神宮用の漁場が禁漁区であったという証拠はあるのでしょうか。鎌倉時代末の神宮関係の史料によれば、神宮領である安濃津周辺の海で獲れた魚が神宮に納められる以外の目的で流通していたこと分かります。また、鎌倉時代の説話集である「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」には、安濃津近くの神宮領であった別保(現在の津市河芸町)で漁師が毎日網を入れたところ、人魚が獲れ、平清盛の父親である平忠盛へ献上しますが、忠盛はすぐに漁師に返し、漁師はそれを食べたものの、格別のことはなかったとの記述があります。人魚が獲れたかどうかの真偽はともかく、漁師は神宮領で水揚げされた魚貝類を世俗の人に提供したり、自分で食べても、罪にはならなかったことがうかがえます。
このように阿漕浦が神宮の禁漁区であったとの裏付けはないことから、謡曲の「阿漕」では、殺生と神領での密漁という二重の罪によって阿漕が地獄の責め苦を受け、救いを求めるというあらすじを強調するために、神宮御用の漁場を禁漁区としたと解釈されています。
また、謡曲や伝説では、法によって罰せられて死罪となったとありますが、神宮領にそのような規定や裁判についての記録はなく、禁漁または自主規制は仲間内の合意で、その掟破りに対して制裁を加えることはあったかもしれません。室町時代から村落の自治力は高まり、仲間内でルールを決め、それが破られれば、仲間として懲らしめるということもあったでしょう。実際に制裁を加えたかどうか別としても、そのようなシステムが存在したということを示していると考えられます。
(4)ヤガラの薬効
ヤガラとは、トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヤガラ科ヤガラ属の魚で、日本ではアカヤガラとアオヤガラが生息します。アカヤガラは、体長は2m前後になり、非常に細長く断面は丸く、棒状で、頭部は身体の3分の1ほどもあります(図1)。アオヤガラは青味がかり、アカヤガラよりも小さく1m程度です。その形が箭(や)の幹(から)、すなわち矢の棒の部分に似ていることからヤガラと名付けられました。生息域は日本全域から太平洋、インド洋、大西洋と地球全域に及びます。沖合のやや浅い岩礁域に生息し、その細長いくちばしを岩の隙間に差し込み、小魚などを吸い取る肉食魚です。古くから椀ものなど割烹料理に用いられ、市場に出回ることは少なく、一般家庭で食される機会はほとんどありません。刺身や焼きものなども味がよいそうです(藤原,2017)。
アカヤガラの薬効については、貝原益軒の著作で1709年に発刊された生物学書の「大和本草」には膈噎(かくいつ)と呼ばれる食道ガンなどに効くと記されています。1712年に寺島良安が編纂した百科事典である「和漢三才図会」には、くちばしの部分が膈噎に効くと言われているが、その効果ははっきりしないと書かれています。その他、腎臓病やぜんそくに効果があるとか、食道が狭くなった場合に管状の長い口を使って食物を流し込むとよい、という説もあります。カテーテルチューブ代わりにアカヤガラの口先を使うのは、口吻が少し広がるので、先端から流動食を流し込むことは可能でしょうが、柔軟性がないので、食道にまっすぐの状態で挿入するのは大変そうです。さらに、将軍家光が病気になり、ヤガラを求めたがないので、藤堂藩(津市を中心とする三重県中部)が江戸藩邸にヤガラ(の干物?)を貯えていたのを献上したという話があります(青山ら,1988)。
実際の効果については学術的に調べられたことはないようです(山口,2014)。いろいろ調査はされたものの顕著な成分などは発見されなかったのかもしれません。したがって、ヤガラが平治の母親の病気に効果があったというのも伝説ということになります。
(4)伝説の背景
伝説は事実ではありませんが、語り継がれる背景には事実が隠れていることがあります。
平治の伝説に似た話として、古今著聞集や十訓抄(じゅっきんしょう)に、白河法皇が殺生を禁じたところ、魚しか口にしない老母の体が衰えていくことを憂いた孝行息子の僧が川で小魚をすくったところを役人に発見され、白河法皇同席の裁判にかけられますが、平治とは異なり、その孝行ゆえに許されるというものがあります。実際に白河法皇の時代(1096~1129年)は殺生禁制がやかましく、漁網を焼いたといわれています。それだけ、極楽往生を願うために戒律がうるさかった時代があったのでしょう。
さらに、江戸時代、徳川吉宗が、少年の頃、松阪(紀州藩)に住み、阿漕浦(藤堂藩)の殺生禁断の地に網を入れたところ、役人は徳川御三家の威光を恐れて見て見ぬふりをしましたが、大岡越前守忠相は、捨てておけないとして、吉宗の取り調べを行い、その時に吉宗と忠相が知り合ったという話があります(橋本,1935)。しかし、大岡忠相が山田奉行在任中、吉宗は28~31才で少年とはいえず、またすでに紀州藩主となっており、いたずらをするとは思えません。さらに、大岡忠相が山田奉行の時に紀州領と神宮領の境界争いを裁き、吉宗がそれを知って江戸町奉行に抜擢したという物語もありますが、それも架空の話であり、山田奉行在任中はさしたる業績もなかったとのことです(橋本,1977)。
それでも、いろいろな伝説で神宮領が出てくるのはなぜでしょうか。神宮の摂社や末社の入口には、神宮司廳名で制札が掲げられ、そこには「車馬を乗り入れること、魚鳥を捕らえること、竹木を伐ること、右域内において禁止する」と書かれています。さらに、旧紀州領にあった神社には、「禁殺生」と書かれた石柱が立っています(写真4)。側面には享保甲辰と彫られ、吉宗が将軍であった頃の1724年に紀州藩が建てたものです。この規制は、神宮の土地の生物相や景観の保全などには効果があったものの、その日暮らしに追われ、時には飢饉に直面することもあった地元の人々にとっては、神宮領内の食料資源などを何とかしたいと思ったのでしょう。神宮はともかくとして、神宮から委託された管理人の中には、神宮の権威を背景に、傲慢な態度をとる者もいたでしょう。そのような、地元の人々の記憶が、物語の背景にあるのかも知れません。
伊勢市在住の私の世代(60才前後)が子供の頃、五十鈴川で泳いでいると年寄りから「神宮さんの川に入るな」と叱られたという話を聞きました。
(5)ガイド
阿漕塚:津市柳山津興622
鉄道:JR・近鉄津駅から三交バス米津方面行き阿漕浦下車徒歩5分
自家用車:伊勢自動車道津IC下車東へ6km,阿漕浦海浜公園駐車場
参考資料:
青山泰樹ら(1988)阿漕平治を語る,津の本,25,p26-33
藤原昌高(2017)ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑
橋本増蔵(1935)神都讀本,p1-150,宇治山田市教育会
橋本隆介(1977)伊勢山田奉行沿革史,p1-337,雲夢園
小坂宣広(2012)阿漕平治の教材化について,ふびと,63,p26-76
大川吉崇(1986)食べもの三国誌,p1-227,新人物往来社
梅原三千ら(1986)津市史3,p1-783,津市役所
山口敦子(2014)アカヤガラ,長崎大学広報誌,49,p19-20
農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住
食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る