環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食
食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る
食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る
農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住
(1) 神宮御園の概要
神宮御園(みその:以下御園)とは、神宮の神饌の野菜および果物を生産する畑で、内宮、神田および御塩浜と同じように五十鈴川右岸に位置し、内宮から約6km北東の伊勢市二見町の沖積地にあります(図1)。面積は、約2ha、土壌は土壌図では砂質で地下水位の高い中粗粒強グライ土となっています(農業環境技術研究所,2015)。神様に穢れのない食べ物を提供する清浄栽培のため、かつては家畜糞尿を含まない堆肥、魚粕や油粕などを用い、農薬を使用していませんでした(橋野、2000)が、その後最低限の農薬や化学肥料は用いているとのことです(南里,2011)。
古代、神戸(かんべ)と呼ばれる神宮の神饌の食材や経営資源を供給する土地が平安時代以降、御厨(みくりや)や御薗・御園(みその)などと称する荘園として全国に拡大し、そこから適時、野菜や果物などが送付され、神饌として提供されました。例えば、タケノコ、フキやヤマイモは三重県多気町相鹿瀬(おうかせ)の相可瀬御厨から、ダイコンは今でも地名に御薗が残っている伊勢市御薗町王中島の中島御薗から、カキやクリは松阪市飯高町作瀧の瀧野御薗などから調達された記録が残っています(神宮司廳,1979)。
しかし、1871年、明治政府によって寺社領が没収される上地令により神領地を失うと、農産物の供給は業者からの購入に頼ることになりました。時の神宮大宮司はこれを遺憾とし、1898年に、現在の御園がある二見町に約1haの土地を購入し、神宮直営による野菜や果物の栽培を開始しました。土壌の改良を図りつつ、栽培品種の増加や品質維持のため、面積を2haまで拡張し、ワサビの栽培圃場を内宮に隣接する宮域林内に設けるとともに、ショウガは浜松市で栽培されました。しかし、現在、ワサビとリンゴは長野県安曇野市の農家で栽培されたものを用いているほかは、すべての野菜と果物は御園で供給される体制となっています。
(2)御園祭
毎年3月の春分の日の午前10時から御園内の祭場で、作物の豊作と農作業に携わる人々の安全を祈念する御園祭が行われます(写真1)。まず、神饌をお供えし、祝詞が奏上され、神宮大宮司をはじめ、農業関係者が玉串を捧げます。その後神職から御園の現場責任者である作長に忌鍬(ゆくわ)が手渡されます(写真2)。忌鍬は刃と柄の角度が大きな打ち鍬で、古墳時代から使われてきた、台が木でU字型の鉄製の刃のついた風呂鍬です。作長は忌鍬で畑地を左、右、中と耕す所作を行い、神事が終了します。
(3)栽培作物
御園で栽培されている作物について、資料から調べた結果を表1に示しました(橋野,2000)。野菜で43種類、果実で22種類が記載されています。しかし、資料には約70種類以上とあったので、すべてを網羅しているわけではありません。他の資料では、このほか、メロン、スイカ、乾栗、乾柿、松茸(マツタケ)や筍(タケノコ)(矢野, 1992)、莢菜豆(サヤインゲン)、芋茎(ズイキ)や三つ葉(ミツバ)(南里,2011)などがあげられています。
野菜では葉菜類が多く、果菜類が意外に少ないようで、ピーマン、シシトウ、オクラといったものが記載されていません。ニンニク、ニラやタマネギなどのにおいや刺激の強いものは避けているといわれています。カリフラワー、ブロッコリー、サラダ菜、セミノールなど明治以降日本に輸入されたり、品種開発された作物も栽培されているのが注目されます。人間にとっても健康によいもの、おいしいものを歴史にこだわらず、積極的に取り入れているということなのでしょう。また、バレイショやサトイモなどが栽培されているのに、サツマイモがないのも不思議です。
柑橘類は種類も多く、種名も記載され、香橙(クネンボ)などの珍しいミカン(写真3)も栽培されていますが、モモ、ナシ、リンゴなどは種名がありません。1種類だけなのかも知れませんが、どのような品種なのか知りたいところです。柑橘類の種類が多いのは、三重県が温暖で降雪がないことなど気候的にも主産地であること、または柑橘類が記紀の時代から縁起の良いものとして伝わっていることが関係しているかもしれません。
日本書紀の垂仁紀に、田道間守(たじまもり)が遠い海の彼方にあるとされる常世(とこよ)の国から、「非時の香菓(ときじくのかくのみ)」と呼ばれる柑橘類を持ち帰り、「今橘(タチバナ)と謂ふは是なり」と記されています。「ときじく」とは、いつでも存在するということであり、「かくの」とは香り高いことを意味し、花も実も永く香り、めでたい木とされています。このため、御所の紫宸殿の前には「左近の桜、右近の橘」として、かならず植えられました。
神饌を載せる皿は4寸土器といわれ直径約12センチ、高さ2cmの円形の浅型の小さな皿で、それに載せるために野菜のサイズを小さく作るように、品種を選んだり栽培方法を調整するのに苦労し、特にダイコンは3本を1束にするので細く小さな品種を選んでいるとのことです。種苗類は種苗会社から献納されているとのことです(鈴木,1988)。
(4)矢原御厨
ところで、ワサビの供進地である長野県安曇野市には神宮の御厨がありました。平安時代初期、干ばつや長雨による飢饉または疫病が頻発し、口分田を棄て流浪する公民の受け入れ先として、御厨などの貴族や寺社の荘園が存在し、次第に律令制の根幹のひとつである公地公民制は崩壊していきました。鎌倉時代1194年に編纂された神宮の御厨についての記録である「神鳳抄」によれば、当時全国に約1,400カ所あった神宮領の中で矢原御厨の面積は最大で、2,205haであったとのことです(鳥羽,1945)。しかし、神宮の経済的基盤であった直轄領の神田や御厨は、南北朝以降、武士たちに横領され、神宮は経済的に困窮し式年遷宮もままならなくなりますが、伊勢参宮をプロデュースする御師(おんし)たちの活躍で神宮と民衆が結びつくことによって江戸時代に復活を果たします。
矢原御厨の鎮守社であった矢原神明宮の創立は平安時代後期とされ、祭神は天照大御神と石川県白山市にある白山比咩(しらやまひめ)神社の祭神である白山姫(しらやまひめ)大神です。社殿の屋根は銅葺ですが、鰹木(かつおぎ)を6本載せ、棟持ち柱があり、千木の先端が水平に切られている内削(うちそぎ)で内宮正殿様式の神明造りとなっています(写真4)。現在の社殿は1955年に神宮第59回式年遷宮の際の古材をリユースして造営されました(長野県神社庁,2015)。
1948年矢原神明宮の氏子総代から、矢原御厨のつながりから矢原地区のワサビを神宮へ献納することの申し出があり、神宮はそれを受け入れました。1949年に神宮山葵圃を大王わさび農場のワサビ畑の一画に設定し、毎年ワサビを神宮に献上しているとのことです(鈴木,1988)。大王わさび園の一画に矢原神明宮の分室が設けられているので、2014年11月に参拝しようとしましたが、熊が出没する危険があるとのことで、立ち入り禁止となっていました。
(5)ガイド
神宮御園(御園祭):
列車・バス:近鉄宇治山田駅、近鉄JR伊勢市駅から土路・今一色または鳥羽行き汐合(しあい)下車、徒歩2分
自家用車:伊勢鳥羽自動車道朝熊インターチェンジから北へ1.5km
矢原神明宮:
列車:JR大糸線柏矢町駅東900m、徒歩15分
自家用車:高速長野道安曇野インター北5km
大王わさび農場
列車・バス:JR大糸線穂高駅下車安曇野周遊バス東回り大王わさび農場下車すぐ
自家用車:高速長野道安曇野インター北6km
参考資料:
橋野加津夫(2000)神宮の神田・御園,瑞垣,186,72-79
神宮司廳(1979)神宮要綱,p1-754,東方出版
長野県神社庁(2015)矢原神明宮
南里空海(2011)神饌,p1-240,世界文化社
農業環境技術研究所(2015)土壌情報閲覧システム
鈴木庄市(1988)神宮祭典御料の整備,神宮司庁編,神宮・明治百年史,p1-315,神宮文庫
鳥羽正雄(1945)矢原神明宮由緒,矢原神明宮
矢野憲一(1992)伊勢神宮の衣食住,p1-337,東京書籍
農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住
食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る