科学的根拠に基づく食情報を提供する消費者団体

執筆者

谷山 一郎

農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住

環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食

10 宮川の洪水と外宮・・・雨のゆくえ2

谷山 一郎

キーワード:

(1)宮川と外宮
 三重、奈良と和歌山の県境の大台ヶ原を水源とし、伊勢市の西部を流れて伊勢湾に注ぐ宮川は、豊宮川とも呼ばれたことがありました。豊宮川とは外宮すなわち豊受宮の禊(みそぎ)川を意味し、それを短縮して宮川と称するようになったという説があります。

図1 伊勢市の外宮付近の地形図(国土地理院,2015に追記)

図1 伊勢市の外宮付近の地形図(国土地理院,2015に追記)

 1707年に起こった宝永の大地震で地表面が隆起するまでは、外宮の北側を豊川という宮川の分流が流れていました。それは、図1の松井孫右衛門碑の○印付近から宮川と分かれ東に向かい、さらに分岐していました。外宮正宮は川に囲まれており、川は現在の勾玉池付近で再び合流して、勢田川に注いでいました。伊勢市街を歩くと道路の僅かな起伏から昔の河道跡が分かり、場所によっては今でも排水路として残っています。

写真1 外宮川原祓所から見た雨の御池(2015年2月8日)

写真1 外宮川原祓所から見た雨の御池(2015年2月8日)

 外宮正宮の南側のかつての宮川の分流は、現在では外宮敷地内の山中を水源とする御池や勾玉池になっていますが、内宮の五十鈴川岸辺の御手洗場と同じように、昔は正宮南側に御手洗場があったとのことです。また、御池と参道の間の広場は、現在でも川原祓所(かわらのはらいしょ)と呼ばれ、遷宮の際にお祓いが行われます(写真1)。

 この宮川の流路延長は91kmで、宮川と同じ大台ヶ原を水源とする紀ノ川は136km、熊野川は183kmと比較すると、宮川の勾配が急で、川の流速が速くなります。

写真2 三郷山展望台からの宮川と伊勢平野(2015年2月22日)

写真2 三郷山展望台からの宮川と伊勢平野(2015年2月22日)

 さらに、宮川と同程度の流路延長116kmの九頭竜川が福井平野に出る場所の河床の標高は約30mに対し、宮川が伊勢平野に出る岩出町の河床の標高は4~5mと平野に出てから急に勾配は緩くなっています(写真2)。このため、大量の降雨があった場合、険しく急峻な谷間を高速で流れてきた河水は平野に出た途端に流路からあふれ出て、洪水が発生しやすくなります(農業農村整備情報総合センター,2015)。

 宮川の中流から上流にかけては川底が低いため洪水の被害を受けずに済みましたが、洪水の災禍を被ったのは、下流の平野部に集中しています。最初に洪水の被害状況が記録に残されたのは、717年8月16日、「太神宮諸雑事記」で、大風洪水で外宮正宮の瑞垣御門が流出したことなどが記されています。これ以後、周期的に宮川下流一帯を洪水が襲ったという記録が残されています。

 また、内宮も五十鈴川の洪水にも悩まされてきましたが、内宮と外宮で洪水被害を受けた年が異なるのは、近い距離であっても五十鈴川水系と宮川水系で降水量の傾向が異なるためと考えられます。

(2)宮川の堤防と平清盛
 初めて人工の堤が築かれたのは1100年代中頃で、天皇の勅使として神宮に出向いた平清盛が住民の訴えを聞いて宮川に堤を築いたといわれています。しかし、堤防が築かれた場所がたまたま清野森(きよのもり)という場所だったので、それが訛って清盛堤と呼ばれたのであって、清盛とは関係がないという説もあります(宮川用水土地改良区,1986)。

 なお、外宮の表参道の手水舎の参道を挟んで反対側に、清盛楠(きよもりくす)と呼ばれる樹齢千数百年、高さ約12m、胸高直径1.13mのクスの大木があります(写真3)。しかし、これは平清盛の長男重盛が神宮へ勅使として参向した際、冠にさわった枝を切らせた話が清盛と誤って伝えられたと言われています(せんぐう館,2014)。神域の木はみだりに切ってはならないという神宮の不文律を押して切らせた傲慢な平家の代表として、清盛の奢りを諭したと伝えられる孝行息子の重盛ではなく、清盛になったのでしょう。

写真3 外宮表参道の清盛楠。遠景は手水舎(2015年3月13日)

写真3 外宮表参道の清盛楠。遠景は手水舎(2015年3月13日)

 しかし、通行の邪魔になった枝を切らせたぐらいのことで、後々まで悪く言われるのは少々気の毒なような気がします。伊勢市民は清盛堤の話にあるように、津市周辺を出身地とする伊勢平氏に同情的です。また、南伊勢町には平家の落人が住み着き、せんごう法による塩製造で生計を立てていた八ツ竈(現在は七ツ竈)と呼ばれる集落があり、平家の人々を受け入れてきたと言い伝えられています。清盛楠のことは、平安時代後期に外宮権禰宜であった度会光倫が源頼朝とよしみを通じていた(せんぐう館,2014)という政治情勢を踏まえた話なのかも知れません。

 その後、豊臣秀吉が1592年に築堤したと伝えられる宮川大堤を始め、1624年山田奉行が幕府に訴えて造った大堤防も、20年後の洪水によって決壊し、多くの人命を失いました。以来、浅間堤、駿河様堤など江戸期に18回におよぶ大規模な築堤・修復を行なっていますが、洪水のたびに堤防は決壊し、甚大な被害を被っています(農業農村整備情報総合センター,2015)。

 最近でも1964年7月6日から7日にかけての大雨によって伊勢市内を流れる宮川水系の勢田川が氾濫し、浸水面積は3,051ha、伊勢市市街地の大部分と御薗村で家屋が浸水、死者2名、家屋全壊1世帯、床上浸水3,224戸、床下浸水10,924戸などの被害があり、この水害は「七夕水害」と呼ばれています(国土交通省河川局,2008)。

写真4 朝日に輝く土宮(2015年3月13日)

写真4 朝日に輝く土宮(2015年3月13日)

(3)土宮と瀧祭神
 そのような宮川の洪水を防ぎ堤防を守るため、平安末期の1128年に土御祖神社(つちのみおやじんじゃ)と呼ばれていた末社が、外宮の神職の申請が認められ、二階級特進によって別宮に昇格して土宮(つちのみや)となりました(神宮司庁,2015)。それだけ、洪水に対する切実な思いがあったのでしょう。祭神は大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)で、外宮のある山田地域(内宮は宇治地域)の地主神です。

 土宮の場所は、豊受大御神の荒御魂を祭る「多賀宮(たかのみや)」に登る階段下にあり、他の別宮が全て南向きなのに対して、同宮だけは東向きに建っています。その理由はよく分かっていません。1135年の遷宮の際には南向きへの建て替えが検討されましたが、先例に従ってそのままになったという経緯があります。しかし、東向きのため、早朝、朝日を浴びて黄金色に染まる新しい社殿を拝するのは清々しいものです(写真4)。

 また、内宮でも五十鈴川の治水を願って祭られた所管社があります。瀧祭大神(たきまつりのおおかみ)を祭神とする瀧祭神(たきまつりのかみ)です。御手洗場から参道に戻るとすぐ右手にある板垣の中の石畳に石神として鎮座しています。所管社でありながら別宮と同等の祭祀が捧げられる特別な神ですが、その理由は不明です(伊勢文化舎,2008)。

写真5 堤防上の松井孫右衛門碑(右の社)から望む宮川(2015年1月30日)

写真5 堤防上の松井孫右衛門碑(右の社)から望む宮川(2015年1月30日)

(4)松井孫右衛門
 このように宮川の堤防は修復と決壊の繰り返しでした。そこで登場するのは松井孫右衛門です。伊勢出身の妻の話では「小学生の頃、郷土の偉人として松井孫右衛門を学校で教えられ、遠足で宮川堤の孫右衛門碑にも行った。伊勢市で子供時代を過ごした人は誰でも松井孫右衛門を知っている」とのことです。松井孫右衛門碑は宮川堤公園の南端、宮川に突き出た浅間堤の一角に、周りに白石が敷かれた神明造りの小さな社とともにあります(写真5)。伝承によれば、現在の伊勢市中島(図1の北西、宮川の右岸に中島の記載)の庄屋であった孫右衛門は、洪水の惨状を見かねて堤防の人柱になる決意をし、1633年堤防の検分に来た役人に「今日集っている住民代表の中で、衣類に一番継ぎの当たっているもの,汚れているものが、人柱になってはどうか」と提案しました。人々が自分のことかと狼狽する中、その該当者は孫右衛門で、孫右衛門が自ら人柱となるべく提案したものでした。その後孫右衛門は従容として地中に埋められました(宮川用水土地改良区,1986)。

 ところで、近所や伊勢市内の親戚の小中学生に松井孫右衛門を知っているかどうかを尋ねたところ、誰も知りませんでした。宮川に近い学校では分かりませんが、事実の裏付けのない話なので今では教えてないのでしょう。しかし、災害史の一エピソードとして、知っていてもよい話だと思います。

(5)洪水と神宮の立地
 このような洪水の常襲地帯になぜ神宮は立地したのでしょうか。その理由については様々な説がありますが、出雲平野の弥生時代の荒神谷遺跡の青銅器と神宮の武具や楽器などの神宝の埋納の類似性の指摘には心ひかれます(勝部,1997)。すなわち、両者とも河川の氾濫に悩まされながら、平野の治水と乾田化による水田の確保のため、神に貴重な青銅器や神宝を捧げ、願いの代償としたのではないかというものです。1,700点もの神宮の神宝は遷宮後、土中に埋められたり焼却されていました。

 農産物の生産に必要な水を確保できるものの洪水のリスクのある土地にあえて挑み、その安定した生産のために神に祈りを捧げていたのかも知れません。

(6)ガイド
三郷山展望台:自動車:県道22号線万所橋東交差点南、三郷山駐車場から徒歩15分
バス:宇治山田駅または伊勢市駅から大倉うぐいす台行など、辻久留3丁目下車、徒歩20分
松井孫右衛門碑:自動車:県道22号線論出交差点北、川原の駐車場から徒歩1分
バス:宇治山田駅または伊勢市駅から大倉うぐいす台行など、論出下車、徒歩3分

参考資料:

伊勢文化舎編(2008)お伊勢さん125社めぐり,別冊伊勢人,p1-160,伊勢文化舎
勝部明生(1997)神宮神宝と考古学,式年遷宮と御神宝,神宮教養叢書別冊3,p22-41,神宮文庫
国土地理院(2015)1/2.5万地形図
国土交通省河川局(2008)宮川水系の流域及び河川の概要,p1-82
宮川用水土地改良区編(1986)宮川用水史,p1-883,宮川用水土地改良区
神宮司庁(2015)土宮
農業農村整備情報総合センター(2015)伊勢平野の礎
せんぐう館(2014)平成24年度企画展示「清盛と楠」,せんぐう館企画展示図録

執筆者

谷山 一郎

農業環境技術研究所に2014年3月まで勤務。その間、土壌保全、有害化学物質、地球温暖化の研究に携わる。現在は伊勢市在住

環境化学者が見つめる伊勢神宮と日本の食

食や農業と密接な関係がある伊勢神宮。環境化学者の目で、二千年ものあいだ伊勢神宮に伝わる神事や施設を見つめ、日本人と食べ物のかかわりを探る