科学的根拠に基づく食情報を提供する消費者団体

執筆者

畝山 智香子

東北大学薬学部卒、薬学博士。国立医薬品食品衛生研究所安全情報部長を退任後、野良猫食情報研究所を運営。

野良猫通信

コメのヒ素のリスクについて(後編)リスク評価が変わるとき

畝山 智香子

時代ととともにリスク評価が変わることがありますが、ヒ素を例にいくつかの理由を説明してみます。

●科学的知見が増えて変わった

これは最もよく聞く理由かと思います。新しい研究でこれまでわからなかったことが明らかになってリスク評価が見直されることがあります。化学物質の有害影響は肝障害や腎機能異常のようなエンドポイントごとに設定され、最も低い濃度のものが採用されますので新しい有害影響が確認されればリスク評価も変わってきます。

ヒ素は古い時代には急性影響がよく知られていましたが現代最も注目されているのは発がん性です。しかし無機ヒ素化合物は非常に毒性が高いために動物にがんを作るまでの長期間投与する実験がうまくできません。

そのため主にヒトの疫学データをもとにリスク評価がおこなわれてきました。現実に生活しているヒトで長期のばく露量を正確に推定することは非常に難しく、今後も新たな研究で更新される可能性は大いにあります。

脱線しますが、学術論文の数が多いことをもって有害影響の根拠が増えていると主張される場合がありますが、本当に毒性の高いものについては学術論文が少ないことは知っておいた方がいいかと思います。あまりにも危険で取り扱いが困難だったり、毒性が高すぎて僅かの量で死んでしまう、というようなものは研究対象になりにくい。欠けているものに対する想像力がないまま、データベースを検索してわかったつもりになってしまうことはAI出現以前から大きな問題でした。

●ばく露量が変わった

ヒ素のハザード評価が全く変わらなくても、ヒトばく露量が変わればリスクは変わります。

ばく露量が変わる要因としては食品中の濃度と、その食品を食べる量の変化があります。さらにそれまで食べていなかったものを食べるようになったり、食べていたものを食べなくなったりする食習慣の変化もあります。

現時点では日本人の平均的ヒ素ばく露量に最も大きく影響しているのはコメの消費量が年々減っていることです。コメに含まれるヒ素の量はそれほど大きく変わっていないようですが、今後品種改良や栽培技術の革新などが進めば減ることもあるかもしれません。個人のレベルでは白米の代わりに玄米を食べるようにした、ヒジキをよく食べるようになった、といったようなことでも変わります。

●寿命の変化

発がん物質の場合、リスク評価で生涯発がんリスクを計算する場合があります。

例えばEPAのslope factorは化学物質mg/kg/dayあたりのがんリスクを示すもので、この値に1日体重当たりのばく露量をかけることで生涯がんリスクを導出します。この時の「生涯」は70年を想定していました。

しかし現在の日本では平均寿命が既に70才をはるかに超えていますし、がん対策においても目安となる年齢は75才です。この「生涯」を例えば100年にすると、slope factorは大きくなります。化学物質の性質に関する新しい情報が入手可能になったわけでもばく露量が変わったわけでもないのに寿命が長くなると一生の間にがんになるリスクは高くなるのです。

がんの性質を考えれば当然ですし、ある程度高齢になれば最終的な死因ががんかそれ以外かはあまり重要ではなくなるのですが、それでもリスク評価の数値としては変わります。胎児や乳幼児は細胞の増殖活性が高いなどの理由で発がん物質への感受性が高いと考えられているのですが、それに加えて現在既に大人になっている人たちよりも長生きする可能性も高いのであまり発がん物質を与えたくはないわけです。赤ちゃんの離乳食に無機ヒ素を多く含むヒジキを勧めたくないのはそのためです。

●最後に―同じリスクであっても社会の許容度が変わる

社会がどのリスクをより寛容に受け入れどのリスクを拒否するのか、時代とともにどう変わっていくのかについては科学だけでは予想できません。少なくともこれまでの日本では、食品については時代とともにより高い安全性が要求されるようになってきていた、つまりリスクの許容度は年々小さくなってきたように思います。

天然に自然界に存在するヒ素は、決して食品中からなくなることはありませんし、現時点でも世界のどこかで天然のヒ素による中毒はおこっています。

しかしこれまでいくつかのアンケート調査をしてきた中では、コメのヒ素については許容できると回答する人が圧倒的に多かったです。欧米でのコメのヒ素が危険だという主張は日本ではあまりパニックをおこしたりしないのではないかと個人的には思っています。リスクは比較的明確で個人の選択肢もある程度あり、全ての人にとって自分事であろうコメのヒ素は、日本人にとってはリスクコミュニケーションの教材として最適だと思うので、もっとオープンに、ヒ素のリスクやリスク管理方法について議論するといいでしょう。

執筆者

畝山 智香子

東北大学薬学部卒、薬学博士。国立医薬品食品衛生研究所安全情報部長を退任後、野良猫食情報研究所を運営。

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